このDVDは日本語吹き替え版と字幕版がありますが、最初に日本語吹き替え版だと裸体を交えてリアルに描いたシーンと出て来ますが、字幕版だと短いヌード・シーンと出て来ます。
日本語吹き替え版と字幕版の日本語訳が微妙に違っていました。
このDVDはアンネの伝記のほかにカーク・エリスの行った調査に基づいて作られている。
1939年2月オランダ、アムステルダム。
9才のアンネの将来の夢は女優や作家、アイススケーターだった。
アンネは友人達にレオが自分に気があると言った。(イェテケの兄ではないですよね。まさかヘローの父親なんて事は?)
アンネの友人サンネはアンネに明日ゲームをやらないかと誘おうとしたが、おばあちゃんが来るので(どちらのおばあちゃんかは分かりません。)ハンナ(リースやハンネリではないんですね。)を誘ってと断ったが、サンネはハンナを誘ったが、教会に行くと断ると、アンネは模範的なユダヤ教徒だと言った。
アンネは友人達と別れ、自転車で父親の会社に向かった。
会社ではミープがジャムのセールスの電話をしていた。
アンネはミープに父親がどこにいるか聞くとクーフレルと倉庫にいると答えた。
倉庫では父親のオットーとクーフレル、ヘルマンと新商品の開発を行っていた。
ヘルマンはアンネに白くて黒い神様は何だというなぞなぞを出すと、(字幕版だと白と黒の赤い物は何だです。)アンネは分からないと言った。
ヘルマンは白と黒の紙なので新聞だと言った。
字幕版だと白と黒とread(読むの過去形のレッドと赤のレッドが同じ発音なのでそれらとかけています。)なので新聞だと言っています。
次の日、アンネの家に祖母がやって来て、マルゴーに本を、アンネに万年筆をプレゼントした。
母親は祖母は今日からここで暮らすと言った。
フランク一家はホースラル家を訪れ、祈りを捧げたが、アンネは退屈そうにしていた。
祈りが終わるとヒトラーは一時的なものでのちにドイツはじきに元通りになると言うと、ハンナの父親はオットーに人を信用し過ぎると言った。
台所ではアンネの母親のエーディトとハンナの母親が食事の後片付けをしているとマルゴーが手伝うと言い、アンネの母親とハンナの母親はオランダ人の使用人は信用出来ないと話しているのをアンネが聞くとアンネは使用人と言っちゃ駄目、メイドと言ってと言うと、ハンナの母親は神様は何でも知っているけど、アンネはもっと知っていると言った。(本当にもっと知っていたらその後に起こる事を(ry。)
オットーはアンネに自分に甘いと言い、いい人間は間違いを認めるて学ぶ事が出来ると言った。
アンネはパウラ達の話をしてと言うと、オットーはあれは小さい子に話す話だと言ったが、アンネがいいのと言うのでオットーはパウラの話をした。
アンネはオットーにいいパウラと悪いパウラは同一人物ではないかと言うと、オットーはその可能性もあると言った。
アンネは人にいいパウラはどう思われているのか怖がっているので時々悪いパウラになると言った。
1939年6月、フランク一家とプフェファーと恋人のシャルロッテは海水浴に行った。(6月に海水浴なんて早過ぎると思います。オランダよりも緯度の低い日本でも海開きは7月頃なのに。)
プフェファーとシャルロッテがいちゃついているのを見て、(プフェファーの水着が時代を感じさせます。)オットーは自分達にもこのような時期があったかと母親のエーディトはいいえと答えた。(アンネの日記の夫婦の不仲をほのめかしているみたいです。)
アンネの誕生日パーティーに革のロングコートを着たヒトラーの格好をしたハンナの父親がアンネの誕生日パーティーに招かれなかった事を嘆き、オットーにこれでもヒトラーがオランダに来ないかと言い、オットーはハンナの父親と誕生日パーティーに招待された子供達の写真を撮った。(それを怪訝そうに見ていたおばあちゃんが印象に残りました。)
本編の始まるニュース映画(これは本物の映像が使われているようです。)でドイツがポーランドを侵攻し、イギリスとフランスがドイツを侵攻したというニュースを見た観客は怒りのあまりスクリーンにポップコーンを投げ付けるのを(映画館でよく販売されるお菓子がポップコーンなのはポップコーンはあまり音を立てる事はないのとポップコーンが軽いのでスクリーンに投げ付けられてもスクリーンが破けないからです。)よそめにアンネはオットーにいつ映画が始まるのかと聞くと、オットーはもうすぐだ、すぐだと答えた。
映画が終わった後でアンネはオットーにここにも戦争が来るのかと聞くと、オットーはイギリスがヒトラーを倒してくれると答えると、オットーはアンネを引き寄せた。
オットーの会社では従業員達がラジオでドイツ軍がオランダとベルギーのの中立を無視すると聞いていて、アンネの家でもサイレンの音がしたのでアンネがベランダに行ったが、エーディトはあまりにも危険なのでアンネを部屋の中に連れ戻した。
サイレンの音が止み、アンネが外へ出ると、街中に紙がばら撒かれていた。
アンネやほかの人達が紙を拾い、上を見上げると、空から紙がばら撒かれていた。
それを、オットーや従業員達も見ていた。
紙にはナチスのマークの下にアムステルダム市民今すぐ降伏せよと書かれていた。
アンネの両親とファン・ペルス夫妻、ミープの恋人のヤン、ミープが話していた。
オットーはロンドンの妹が娘達を預けろと言っていると言うと、ミープはオットーにそうするのかと聞くとオットーは離れてちゃ守ってやれない、家族は一緒にいるのは一番だと言った。(妹に預ければ良かったのに。)
実際の映像だと思われる白黒映像でドイツ軍の戦車の映像や、戦闘機から兵士達がパラシュートで降下する映像、兵士達が街へ入って行く映像の途中にカラーになり、市民達はナチスの旗を振って兵士達を歓迎し、それをアンネの両親とハンナの両親が見ていた。
1940年5月15日の事だった。
ハンナの父親はたった5日で陥落、ショックで窓から飛び降りる人もいると言うと、オットーはむやみにおびえてもいい事は無い、適応するまでだと言うと、ハンナの父親はそうして来たつもりだと言った。
ハンナの母親は妊娠中でこの子は違う環境で産んであげたかったわ、もっと平和な環境でと言うとエーディトはこれじゃ、フランクフルトと同じねと言うと、ハンナの母親はほんと、でも考えないようにしなくちゃ、今はねと言った。
映画館と思われる所に昨日も観たんだろ、実に良かったという話していると思われる男2人組が入って行く後で、ダビデの星のマークの上に斜めの線が描かれ、その下にユダヤ人お断りと書かれた看板をアンネは見て、ため息をついた後で白黒の映像になり、同じく白黒の映像で(これは実際の映像だと思われます。)ユダヤ人地区と書かれた看板が出て来て、男性が、ユダヤ人の商店だと思われる窓にペンキでダビデの星を描き、(これは白黒ですが、ドラマでの映像だと思われます。)ダビデの星のほかにユダヤ人の横顔が描かれ、JUDEとペンキで書かれたユダヤ人の商店と思われるガラス窓が(これは実際の映像だと思われます。)出て来て、(これは白黒ですが、ドラマでの映像だと思われます。)、男性がユダヤ人の商店と思われるガラス窓にドイツ兵に上手いねと言われながらダビデの星を描いているのをアンネが見てそこを立ち去り、よーし上出来だと言われ、ダビデの星を描いた男性がいいですかと言い、ドイツ兵がああと言った。
引き続き白黒の映像で正面を向いたアンネが1941年1月、ユダヤ人登録所で(ここでカラー映像になります。)右手にカメラ、左手にフラッシュを出す装置(フラッシュを出す時に火を吹いているのに時代を感じさせます。)を持った男性に写真を撮られ、オットーに何なの、パパ、なぜこんな所と聞くと、オットーはただの手続きだよ、アンネ、国勢調査と同じ、お役所仕事さと答えた。
その後でオットーはアンネが書類に親指で指紋を押している時にアンネのフルネームのアンネリース・マリー・フランクと言い、アンネが指紋を押した後でオットー・フランク(正確にはオットー・ハインリヒ・フランクですが。)と自分の名前を言い、書類に親指で指紋を押した。
その後で役人がフランク一家の身分証明書にJの文字のスタンプを押した。
アンネがハンナの妹が乗っているベビーカーを押し、ハンナと一緒に歩いているとイェーフトスルム(オランダ版ヒトラーユーゲント)の制服を着たリュシアがやって来て、女の子ね、何てかわいいのと言うと、ハンナがハビーっていうのと言うとリュシアが妹がいるって大変ねと言うとハンナが世話するのにもう大忙しと言い、ハビーを抱き上げた。
アンネは甘やかしちゃ駄目よ、嫌われる子になっちゃうからと言った。(お前が(ry。)
アンネはリュシアの制服を見て、そのお洋服好きじゃないわ、こう言ったら悪いけどと言うと、リュシアはママが着ろって言うの、忠誠を示さなきゃいけないんだって、よく分からないけど、うちのパパはずっと仕事が無いの、ママはヒトラーが仕事を作ってくれるって言ってるわと言うと、窓からリュシアの母親が、リュシア、何やってるの、その子達から離れてと言うと、リュシアは立ち去った。
オットーはナチスの得意技の事務処理でナチスに勝つと言い、オットーの会社のペクタコンはユダヤ人の会社として登録されているので新しい会社を作ると言い、ヤンに君さえ良ければこれをヒース商会と名付けたいと言うと、ヤンはええ、どうぞ喜んでと言い、でも、どうか用心して下さい、役人は皆ナチスの協力者ですと言うと、オットーは君には一切経営責任の無い監査役になってもらって、私に代わり、クーフレル君がクレイマン君と業務に当たる、これで純然たるアーリア人の企業だ、完全に合法、私は書類上消えると言った。
アンネは事務所の机に座り、ミープに私たちっていけないの、ユダヤ人ってと聞くとミープはいいえ、違う、そんな風に思わないでと言うと、アンネはよほどひどい事したとかと言うと、ミープは前の戦争の時、私はまだ子供でウィーンにいたの、食べる物が無くてね、ある日お母さんが私を呼んで駅に連れて行った、オランダ行きの列車に乗せて首に名札をかけて、さよらなってと言うと、アンネは愛してくれてたんでしょ、ミープはええ、もちろん、だからそうしたの、こっちには食料を分けてくれる人がいたから、当時は何も分からなかった、体も弱くてさみしかったわ、でも大きくなるにつれて分かったの、いい人間でも不幸にに巻き込まれ事はある、何も悪い事していなくてもってねと言うと、アンネは私いい人間だと思うと言うと、ミープはええ、思うわと言うと、アンネは笑顔になった。
事務所のドアがノックされ、ヤンが入って来て、ミープに結婚指輪を見せるとミープは1つだけ?と言うと、ヤンはもう1つは戦争が終わったら買うよ、これは君の、ついに君がちゃんとしたオランダ人女性になるっていう証拠と言うと、ミープは今でもちゃんとしてると言うと、2人はキスをした。
ヤンとミープの結婚式の後で事務所と思われる所でダンスパーティーが行われた。
ファン・ペルス夫人はあなたはレディーの誘い断ったりしないわよね、フランクさんと言うと、オットーはいや、申し訳ないが、あなたには強力なライバルがいる、ファン・ペルスさんと言った。
アンネはクーフレルやベップ、ヤンと踊った。
オットーはアンネと一緒に踊った。(バックに蛍の光が流れています。)
ヤンはミープと、クレイマンはベップと踊った。
1941年10月、ユダヤ人中学校で始業のベルが鳴り、アンネ達生徒は校舎の中へと入って行った。
授業では教師が幾何学の基本的な定理を見つけた人物の名は、ピタゴラスだ、では、書き取ってと言い、教師はピタゴラスのスペルを言いながら黒板にピタゴラスと書いているとアンネが咳払いをしてとても面白そうな授業ですけど、ここからじゃ見えませんと言うと教師は前の生徒に代わってもらうように言った。
アンネはジャックの隣になる事が出来た。
アンネは学校の帰りに自転車に乗りながらジャックに、きれいな目ねジャック、一目見た時そう思った、私は髪の毛が素敵って言われるの、どう、そう思う?と言うとジャックはええもちろんと答えると、アンネはうちはメルヴェデ広場よ、すぐ近くだからいつでも遊びに来て、一緒に宿題やりましょ、きっと楽しいわと言うと、ジャックはそうねと言うと、アンネは私たちきっと親友になる、モンテッソーリ・スクールじゃ人気者だったの、(自分で言うなよ。)だからもうあそこに通えないって聞いた時は泣いちゃったと言うとジャックは私の学校、ひどい子がいてね、私達の事をユダヤの女って、怖くてみんなで走って逃げたわと言うとアンネはひょっとして、これで良かったのかもね、だってドイツ人が来なきゃ、私達、出会えなかったのよと言った。(アンネ達の自転車とドイツ兵がすれ違っていたのが印象的でした。)
アンネの家でアンネとジャックが宿題をやっているとテーブルの上にやって来た猫をアンネはこれはモールチェ、もうじき子猫を産む筈、ボーイフレンドがいっぱいいるからと言い、エーディトが縫い物をしながらアンネと言うと、アンネはねえ、ママ、ジャックにうちに泊まってもらってもいい?と言うとエーディトはジャックが良ければねと言うとアンネは待って、それよりこうしよう、私が泊まりに行く、その方が色々自由に話できるもんと言うと、ジャックは笑い、アンネはエーディトと思われる方を向くと、エーディトは黙って縫い物をし続けていた。
ジャックの家でジャックはアンネにドレスの写真を見せて見て、素敵なドレスでしょ、ママのデザイン、お金持ちのお客さんが大勢いたわ、でも、戦争が始まってママ、作るの止めちゃったのと言うとアンネは戦争が終わったら最高のお洋服着ればと言った。
アンネはジャックの部屋にヨープ・テル・ヘールの本を見つけるとアンネはヨープ・テル・ヘールと言い、ジャックは読んだ?と聞くと、アンネはヨープ・テル・ヘールの本を取り出しながらええ、3回、シシー・ファン・マルクスフェルト、大好きな作家よ、レオがヨープにプロポーズするとこ大好きと言い、ジャックにじゃ、私、ヨープ、あなたレオねと言い、アンネはヨープ・テル・ヘールの本を読みながらプロポーズのシーンを再現した。
アンネはジャックに私達、親友でしょと言うと、ジャックはもちろんよ、私達は永遠に親友と言うと、アンネはもしどちらかが遠くへ行っても文通するって約束よと言うと、ジャックは分かったと答えた。(後のアンネの日記をほのめかしているように感じられます。)
ユダヤ人中学校の円周率の授業でアンネとハンナ、ジャックが誰かのお母さんのおしゃべりをしていると教師がアンネ達の方を向いて咳払いをするとアンネたちはおしゃべりを止め、教師はペチャクチャよくしゃべるね、フランクさん、それほどみんなと知識を分かち合いたいなら、作文を書いてもらおう、題名はクワックワックワッと鳴くおしゃべりお母さんと言うと、周りの生徒は笑い出した。
教師は期日は明日までだと言った。
その夜、アンネはマルゴーの机の隣で作文を書いていた。
オットーとエーディト、ファン・ペルス夫妻が話していて、ファン・ペルス夫人が、扇子をあおぎながら、もう、最低、暗幕で窓ふさいでると重苦しくてこのまま窒息して死ぬんじゃないかと思うわと言った。
ファン・ペルスが気のせいだよと言うと、ファン・ペルス夫人はそんな事無いわ、私繊細な女ですの、フランクさんと言い、オットーの方を見て、ファン・ペルス夫人はとってもねと言った。
ファン・ペルスはこの戦争、ドイツが間違いなく負けると言うと、ファン・ペルス夫人がだから、いつよ、教えてと言うと、オットーは今ある幸せに感謝しなければと言うとエーディトは幸せってあなたと言うと、オットーは家族がみなここにいる、それで十分だと言うと、アンネがやって来てみなさん、聞いて、クワックワックワッと鳴くおしゃべりお母さん、作者アンネ・フランクと言うと、オットーは聞いてるよ、アンネ、続けてと言うと、アンネは昔々、お母さんアヒルと3羽のかわいいアヒルの子が黒鳥のいる湖で暮らしていました、クワックワックワッとおしゃべりお母さんが鳴くとクワックワックワッと子供達、こらお前たちうるさいぞ、と黒鳥が羽を逆立てます、静かにしないと噛み付いて、2度と鳴けなくしてやる、とアンネが作文を発表し、アンネは引き続き学校でも作文を発表し、その黒鳥は意地悪でした、全身真っ黒で、アヒルはみんな彼を恐れていました、でもお母さんはへっちゃら、うちの子を噛んだら許さないよ、お母さんが言うと、黒鳥は何をしようと俺の勝手だ、ただの醜いアヒルの子じゃないか、ここの支配者は俺だ、そして子供達を噛んだのです、助けてママ、泣き叫ぶ子供達、お母さんは大声でわめきました、クワックワックワッ、やめろ、忌々しいアヒルめ、やめろ、と黒鳥が羽で耳を覆っています、それでもお母さんは止めません、ついに黒鳥は逃げ出し、飛んで行ってしまいました、お母さんは子供達を集め、みんなで楽しそうに泳ぎながら歌を、歌いました、とアンネは教師の方を見て、クワックワックワッと発表を終えると教室内で笑い声と拍手が沸き起こった。
クレイマンがオットーに事務所の建物の急な階段を案内し、クーフレルが実は、この建物を借り切ったらどうかと思っているんです、ま、とにかく中をご覧下さいと言うと、3人は階段を上り、部屋の中へと入ると、クーフレルがここは、2部屋で、下に洗面所があります、あと屋根裏部屋、研究室にぴったりですよ、そうでしょ、ファン・ペルスさんと私がここで、色々混ぜて、と言うと、オットーはうんと言い、クーフレルは実験して、いかがですと笑いながら言うと、オットーはああ、いいだろう、商売はまあ順調だし、借りる余裕はある、うん、と言った。
ユダヤ人登録所と思われる所では役人が身分証明書にスタンプを押していた。
ユダヤ人登録所と思われる所にはオットーとエーディトが来ていてオットーは今日はドイツ人、気前がいいな、服の配給券1枚で星を4つもくれると言うと、エーディトが今度は焼印を押されるのと聞くとオットーはそのようだ、礼に金まで払えとさと言い、エーディトの背中を叩き、エーディトと腕を組むとエーディトはため息をつき、2人は役所を後にした。
アンネとジャックが腕を組みながら歩き、アンネは夏休みって事は授業終わっちゃうのよ、さびしい、特に歴史、歴史大好きと言うと、(夏休み前なのにジャックはコートを着て、アンネは手袋をしています。いくらオランダが日本よりも高いとはいえコートと手袋をするのでしょうか?)ジャックは私は自転車無いのがさびしい、学校遠いんだもんと言うと、アンネは笑い、私の盗まれて良かった、ドイツ人にやるよりいいわと言うと、後ろでハンナがあらおしゃべりお母さん、と言い、ハンナと一緒に歩いていた子とクワックワックワッと言い、笑いながらまたとクワックワックワッと言うと、アンネはため息をつき、あの子達ってほんと幼稚と言い、アンネはお店のショーウィンドウまで行くと、ショーウィンドウにはサイン帳が置いてあり、アンネは見て、素敵でしょ13才の誕生日にパパに買ってもらうの、きっと最高の誕生日になるわと行った。
アンネがショーウィンドウの日記帳をしばらく見た後で立ち去ろうとしたら青年とぶつかり、アンネがごめんなさいと謝ると青年はアンネ・フランクだよね、あの、うちのいとこのベルマと同じ学校の、僕へロー、ヘロー・シルベルベルフと言うと、アンネはああ、ヘロー、ハローと言った後でアンネとジャックは笑い、アンネはこの子親友のジャックよと言い、(向かい側にハンナ達がいます。)ジャックははじめましてと言うと、ヘローはもし、良かったらだけど、ホットチョコでもおごるよと言うと、アンネはホットチョコ大好き、ほんと、ヘローって本名なのと言うと、(ヘローは新庄みたいな人ではありませんでした。)ヘローはヘムルート、でも、ドイツ風だから、おじいちゃんが嫌がってヘローって呼ぶんだと言うと、アンネはヘローなんてご両親笑わないと言うと、ヘローはさあね、もう、4年近く会っていないからと言うと、アンネは1人でこっちに来たの、きっとすごく、危険だったんでしょ、私はそんな冒険した事無い、おばあ様はしたけど、あまり話してくれなかった、この冬亡くなったの、癌になってと言うと、ヘローはそうか、残念だねと言うと、アンネは愛してるってちゃんと言うんだったと言うと、アンネとヘローは歩き、ヘローは出来たら、またこうして会いたいな、良かったらだけどと言うと、アンネは付き合っている人いないのと言うと、ヘローはそれが、あの、ウルシュラって子が、きれいな子だよと言うと、アンネはええ、そうと言うと、ヘローはでも、君の方がずっと楽しい、水曜の夕方なら会える、おじいちゃんは僕が木彫りを習ってると思っているけど、本当はシオニストの集会に出てるんだ、でも、夢中なわけじゃないよ、大抵、みんなと叫んでるだけ、でも、あれに行くより、君といたいと言いながらアンネの家の前のドアまで行くとアンネは笑いながら私はここにいると言うと、ヘローはじゃ、また会ってくれると言うと、アンネは喜んでと言うと、ヘローはじゃ、次の水曜でと言うと、アンネはそれじゃと言い、ヘローと握手すると、ヘローはまたと言うと、白黒の映像になり、アンネが家に入った直後に本物の白黒の映像になり、ダビデの星が描かれたショーウィンドウの窓が割られ、ドイツ兵がユダヤ人を連れて行く映像になり、(一瞬だけドラマの白黒の映像になったような気がします。)再びドラマの白黒の映像になった後でカラーの映像になり、シナゴーグと思われる所でドイツ兵がユダヤ人を追い出し、トラックへ乗せた。(オランダ人が見て見ぬふりをしながら自転車で通り過ぎているのが印象的でした。)
オットーはミープに入ってくれ、座って、新聞で読んだだろうが、ドイツが地方のユダヤ人に退去を命じて、ここアムステルダムに集めている、ユダヤ人評議会まで協力しろと言っている、と笑いながら言い、オットーは強制労働収容所へ移送する気だ、2月に捕まった青年達を覚えてるか、収容所へ送られてそれっきりだ、ミープ、君に大事な話がある、エーディトと娘と私達は身を隠す、ファン・ペルスさん達一家も、一緒にだ、ナチスに連行されるのを待つつもりは無い、その前に消えると言うと、ミープはどこへですかと聞くと、オットーはここだと言うと、ミープはどこへですかと聞くと、オットーはここだと言うと、ミープはここというと言うと、オットーはここの後ろの建物だよ、7月16日に移ると言うと、ミープは1月しかないんですかと言うと、オットーはクレイマンとクーフレル君が、生活に必要な物を少しずつ運んでくれている、買い出しやら何やら面倒を見てくれる人が必要になる、君の事は、心から信頼してるが、この仕事は、いや、この頼み事はと言うと、ミープはええ、やらせて頂きますと言うと、オットーはいいのか、大変な負担だ、危険を伴う、何かあれば、ただじゃ済まないと言うとミープは分かってます、やりますと言うと、オットーはありがとうと言うと、ミープはうなづき、アンネとマルゴーに、この事はと言うと、オットーはまだ知らない、もうしばらく自由を楽しませたいのでねと言った。
アンネのベッドでモールチェがアンネの所にやって来て、アンネは目を覚まし、アンネはおはようと言い、モールチェとリビングに行くとテーブルの上にアンネの誕生日プレゼントが置いてあり、その中にサイン帳も置いてあり、アンネはサイン帳を手に取り、オットーとエーディトのいる寝室に行き、パパ、ありがとう、どうもありがとう、とっても嬉しい、愛してるわパパ、大好き、と笑い、ありがとうほんとにどうもありがとうと言い、オットーは笑い、アンネがオットーとエーディトの寝室を後にするとエーディトがオットーの方を見て、ベッドから起き上がろうとするとオットーは嬉しかっただけさと言うと、エーディトはでしょうねと言った。
アンネは自分の部屋のカーテンを開けるとマルゴーは目を覚まし、アンネは机の上で早速サイン帳を開き、机の引き出しから何やら取り出し、マルゴーが眼鏡を掛け、アンネは自分の写真を見てなかなかの美人よねと言い、開いたサイン帳の左側のページの上に写真を置き、右側のページに1942年6月12日と書き込んだ。
アンネの誕生日パーティーでアンネは赤い靴を持ってかかと側を合わせて叩き、靴底も本物の革みたいと言うと、ハンナはいいな、うらやましいと言うと、アンネはでしょと言った。
アンネの左隣にいた子が、アンネ、あの人誰と言うと、アンネはあの人のいる方を向くと、アンネは、ああ、ペーター・ファン・ペルスよ、ここの裏庭でいつも何かトンカチやってる、すごい間抜け、彼のお父さん、パパと仕事してるからママが仲良くしろってと言うと、アンネの左隣にいた子が彼素敵ねと言うと、アンネは素敵?と言い、ペーターのいる方を向くとマルゴーがペーター、ビスケットどうと言うとペーターがああと言うと、マルゴーはアンネが焼いたのよと言うと、ペーターはそう、じゃもらうよありがとうと言った。
エーディトが入ってと言うと、ヘローがどうもと言うと、エーディトが呼んで来るわと言い、ヘローが白い花を持って待っていると、アンネがヘローと言い、ヘローの所にやって来るとヘローはやあと言い、アンネが笑い、ヘローはみなさん、こんにちはと言い、オットーがみんな座ってと言い、アンネはどうぞとヘローを席に座らせ、オットーはいいかなと言い、ヘローが席に座る時にアンネの靴を渡すとアンネはありがとうと言いオットーは、ショーの始まりだと言い、映写機を回し、スクリーンに名犬リンチンチンと思われる映画が映り、ヘローがそうだ、アンネ、これプレゼントともっていた白い花を渡し、アンネがありがとうと笑いながら言い、ヘローがどういたしましてと言い、アンネはジャックの方を見て言わなくても分かってる、でも私、誰にも恋はしてない、ただの友達よと言った。
だが、アンネは無意識なのか、意識的なのか分からないが、ヘローの手をの上に自分の手を置こうとしていた。
1942年7月5日日曜日、ヘローがおばあちゃんが付き合っちゃ駄目だって、君はまだ幼いからとアンネの家で言い、アンネはおばあ様が駄目っておっしゃる事はしちゃいけないわと言うと、ヘローは愛があれば何とかなるよと言うと、アンネはじゃ、また後でと言うと、ヘローはさよならと言うと、アンネはさよならと言い、ドアを閉め、アンネはドアを閉めた後で笑い、部屋に入り、マルゴー、ヘローってどう思うと言い、モールチェをなでるとマルゴーは本を読みながらとてもいい人よね、きちんとしてるし、あなたを好きだって一目で分かると言うと、アンネは笑い、でしょ、すごく楽しいと言い、マルゴーにねえ、何歳で生理始まったと聞いたが、マルゴーはアンネの方を見てアンネ、女の子はそういう事聞かないのと言った。
アンネは大人の女性になりたい、女の子なんて嫌と言うと、マルゴーは女の子によって色々よとアンネの方を見て、人によって、そのうち来るわよ、辛抱して待つのねと本をまた読み、立ち去ろうとするとアンネはだからどれ位と聞いた。
アンネの家のベル(電話のベルかと思いました。)が鳴り、エーディトがドアを開けると、郵便配達員がフランクさん、サインをと言い、エーディトがはいと言うと、郵便配達員は書類とペンを渡し、エーディトが書類にサインをし、書類とペンを郵便配達員に渡し、エーディトがドアを閉め、郵便物の中身を確認した。
郵便物はマルゴー・フランク、7月15日移送のために出頭せよという物だった。
エーディトは郵便物を持ってコートを着ながら、(7月5日にコートを着る事ってあるのでしょうか?)マルゴーと言うと、マルゴーがやって来ると、エーディトは郵便物をコートのポケットにしまい、ファン・ペルスさんの所へ行って来るわ、戻るまで誰が来てもドアを開けちゃ駄目よと言うと、マルゴーは何でどうしたのと言うと、エーディトはお父さんに召喚状が来て、手は打ってあるから大丈夫、出来るだけ早く戻るわ、アンネに話しておいて、なるべくショックを受けないように、忘れないで、物音を立てちゃ駄目よ、留守だって思わせると言うとマルゴーは分かったわと言うと、エーディトはじゃと言い、マルゴーの額にキスをして出て行った。
アンネが部屋でモールチェをなでていると、マルゴーがアンネと言うと、アンネは左手に万年筆と思われるものを持ってマルゴーと思われる方を向いた。
エーディトがファン・ペルスの家の階段を駆け上がり、ファン・ペルスの家に入ると、ファン・ペルスがさあ、座ってと言い、ファン・ペルス夫人がどうしたのと言うと、エーディトはマルゴーに召喚状がと本当の事を言うと椅子に座り、オットーかあたしに来るとばかり思ってた、まさかマルゴーにと言うと、ファン・ペルスがオットーはと聞くと、エーディトは病院に、友達のお見舞いに行ってるのと言うと、ファン・ペルスは煙草をくわえて16日と思ってたが、それじゃ間に合わない、オットーが何とかするさと言った。
オットーが家に帰るとエーディトとマルゴー、アンネ、煙草を吸っているファン・ペルスがいて、アンネが父親の所に行くとパパ、もう会えないかと思ったと言い、オットーに抱き付いた。
オットーはため息をつき、アンネを心配させないようにしたのか、ほうら何を言っていると笑い、どうしたと言うと、エーディトが召喚状を持ってやって来てオットーに召喚状を渡し、ため息をつくとエーディトに返し、エーディトにコートを渡しながらアンネ、マルゴーも、リュックサックに荷物を詰めなさい、今日中に済ませるんだよと言うと、アンネは当然の事ながらパパどういう事と言うとオットーは後で説明するからさあ行ってと言うとマルゴーがおいでとアンネを連れて行った。
オットーはファン・ペルスにクレイマン君への連絡を頼む、あとミープとヤンに、ここに来るように言ってくれるか、外出禁止時刻を忘れるなと言うと、ファン・ペルスは煙草を持ちながら出て行った。
アンネはため息をつき、壁紙に貼ってある写真をはがしながらこの写真は置いてけないと言うとマルゴーは辛いだろうけど、甘ったれた感傷は捨てなきゃと荷物をまとめながら言うと、アンネは無理よそんなの、あたしにはスターが全てと言うと、エーディトが部屋に入って来てジャクリーヌから電話よと言うとアンネはジャックと聞くと、エーディトはそうと言い、アンネが部屋から出ようとするとエーディトはねえ、いいわねと言って、アンネを部屋から連れ出した。
アンネがもしもしと電話に出るとジャックが当然の事ながらアンネの事情を知らずに興奮した口調でアンネ信じられる?ヨープが赤ちゃん産むの、お母さんになるなんて、想像出来ると言うと、アンネは当然の事ながら上の空で誰がと言うとジャックはヨープよヨープ・テル・ヘールの、マルクスフェルトの新作見てないの?私もう半分読んじゃったと言うと、アンネは面白そうねと言うと、ジャックは明日いらっしゃいよ、一緒に会いましょ、前やったみたいに、あなたがヨープで私がレオやるのと言うと、アンネはそうね、明日会いましょと言うとジャックは早く表紙見せてあげたい、すごく素敵よと言うとアンネの家のベルが鳴るとアンネはもう行かなきゃ、お客様なの、さよならジャックと電話を切った。
オットーがドアの前までやって来てはいと言うと、ミープとヤンが入って来て、オットーはさあ、奥へとミープを案内し、ミープはアンネに行きなさい、荷造りをしてと言うと、オットーはヤン、と奥へ案内した。
オットーがエーディトの服を持っているとミープはオットーにフランクさん、それ、やりますとエーディトの服をもらい、うなづき、ヤンにヤン、手伝って差し上げてと言うと、ヤンはオットーの所へ行くとミープはエーディトの服を重ね着した。
オットーは友よ 私は町を出ます・・・と紙に書くとこれでみんなの注意がそれる、誰かに何か聞かれたら、スイスへ行ったと言ってくれ、と言い、オットーが書き終えるとため息をつき、眼鏡を拭いていたヤンが眼鏡を掛けるとオットーはヤンに手紙を渡し、そうだ、バーゼルの母に送ってくれと言い、ヤンが手紙を背広の内ポケットに入れるとオットーはこれで分かる筈だと言った。
アンネは誕生日プレゼントにもらった日記帳にしているサイン帳をリュックサックに入れ、だいぶ着ぶくれしたミープがオットーとエーディトの寝室を出て行くとオットーは頼んだよと言うとミープはうなづき、オットーの家を出て行く時にオットーはじゃ、明日と言うと、ミープはうなづいた。
ヤンもオットーの家を出て行った。
アンネの寝室でアンネがモールチェを抱いていて、どれ位、隠れているのとオットーに聞くと数週間か、1、2ヶ月だろう、戦争が終わるまでとこの時はまだ分からなかったのか甘く見積もると、アンネはため息をつき、どこへ行くの、街の中?田舎?と聞くと、オットーは明日分かるよ、大事なのはみんな一緒という事だと言うと、アンネはジャックに手紙書いたり出来ると言うとオットーはそれは駄目だと言うと、アンネはモールチェは、一緒に連れてってもいいと言うとオットーは首を振りながら残念だが、餌と一緒に、世話を頼むとメモを置いて行こうと言うとアンネはそんなのあんまりよと起き上がり、泣き出した。
オットーはああ、そうだなとアンネを抱き寄せた。
翌朝、明るくなる前にミープが自転車に乗ってアンネの家にやって来てドアを開け、エーディトが大丈夫、すぐ会えるからと言い、早くマルゴー、明るくなる前にとマルゴーを連れ出し、エーディトが行きなさい、じゃあねと言い、アンネが外へ出ようとするとオットーがおい、早く中にとエーディトとアンネを中に入れた。
マルゴーは家の前に置いてあった自転車に乗り、ミープも自転車に乗り、マルゴーがミープの方を向くとミープは心配する事ないわ、大丈夫よ、とマルゴーを追い越す時にマルゴーの腕を叩いた。
エーディトがベッドの布団を直しているとオットーはいいから、そのままでいいと言うとエーディトはため息をつき、布団をそのままにして置いた。
アンネは荷造りをしていて、誕生日にもらった赤い靴をテーブルの上に置くとモールチェが鳴いた。
エーディトは暖炉の上に置いてあったオットーとの結婚式の時の写真が入った写真立てを持ち、じっと見ていた。
アンネはテーブルにあった赤い靴を今までの生活に別れを告げるかのように叩き落した。
アンネはモールチェを抱き上げ、モールチェとモールチェの頭をなでた。
オットーはエーディトに過去には生きられないよ、エーディトと言うと、エーディトはため息をつき、下を向くとオットーは未来だけだと言うと、エーディトを抱き寄せるとエーディトは泣き出した。
アンネがモールチェとの別れを惜しんでいるとオットーがアンネ、もう行くよと言われ、アンネはモールチェを置き、エーディトは頭にスカーフを巻き、アンネも頭のスカーフの端をエーディトの結んでもらった。
オットーとエーディト、アンネは家を出た。
オットーはトランク、エーディトは服はミープが重ね着したからなのかハンドバッグ、アンネはリュックサックを持っていた。
家に一匹取り残されたモールチェは何も知らないかのようにテーブルの上に置いてあった餌を食べていた。
3人は街中を歩き、ダビデの星が描かれた店を通り過ぎ、3人が事務所に到着するとミープが中を案内し、エーディトがマルゴーはと聞くと、ミープは中にいますと言うと、エーディトは良かったと言った。
隠れ家はクーフレルが借り切ったらどうかと言っていた所だった。
1942年11月、アンネが隠れ家に入ってから4ヵ月後、アンネはジャクリーヌへ、全てを話せるのはあなただけです、でも、誰にも何も言わないで下さい、私達の居場所を聞かれても黙ってて、そうでないと、とても危険なの、身を隠さないで済んだあなたにここの暮らしについてお話しましょう、ここを私は、後ろの家と呼んでいます、おかしな話ですが、なかなかの住み心地です、と日記を書いていた。
日記を書いていた机には破れた電気スタンドと、家を出る時にかぶっていたと思われるスカーフがあった。
アンネが日記に隠れ家の場所を書いている時に無人の事務所の場面になり、うちのお父さんのオフィスのすぐ上なんですよ、階段を上がると、小さなドアがあります、そこを開けて一歩中に入ると、ジャーン、階段の奥にお父さんとお母さんの部屋、マルゴーと私はその隣、洗面所もあります、上の階には大きなリビングとキッチン、ファン・ペルスさんの寝室ですが、昼間はここが、みんなの居間です、建物に人がいる間はここにいなくちゃいけません、奥にペーターの部屋があります、私の部屋より狭いです、屋根裏に物も置けますと無人の何も置いていない隠れ家の間取りを説明する場面になった後でオットーとアンネが部屋を片付ける場面になり、建物の周りには、倉庫やアパートがいっぱいあります、昼も夜も隠れてなきゃいけません、最初、働くのはお父さんと私ばかり、じきにお母さんとマルゴーも、ショックから立ち直りました、お父さんは驚くほどたくさんの物を運び込んでいました、お父さんもここへ、思い出を持って来ていますと説明している時にオットーが着ていた制服の入った軍用トランクの場面になり、昔の軍用トランクです、これまでの生活を忘れるのは、簡単じゃありません、自分の部屋が懐かしい、でも私には、映画スター達がいます、運が良ければ、帰るまで楽しくやれるでしょう、この家の事は、誰にも秘密です、クーフレルさんとクレイマンさんが、入り口を本棚で隠しました、入り口は小さくて、下へ行く時よく頭を打ってしまいますと笑いながら説明し、7月13日には、ファン・ペルスさん一家がやって来ましたと説明している時にファン・ペルス一家がやって来た場面になりファン・ペルス夫人が最初にリビングに入り、酸素ちょうだい、酸素と言い、間抜けなペーターは、猫を連れて来ました、パパが駄目だって言ったのに、お兄さんと思って仲良くねとおばさんは言いますが、そんなの無理です、照れ屋だとママは言うけど、退屈な人です、アンネが説明をしている時にアンネが日記を書いている場面に戻り、あと、もうじき住人が増えます、仲間を救うチャンスだとこの間パパがみんなに話をしましたと説明している時にオットーがみんなに話をしている場面になり、オットーはプフェファーさんが隠れ家を探してるそうだ、だが心配事を増やすだけとも言える、判断はみんなの任せるよと言うとクーフレルがまあ、7人でも8人でも、危険は一緒ですからねと言うとオットーはそれじゃ、いいねと言った後でアンネが日記を書く場面に戻り、プフェファーさんは、なかなか感じのいい人です、歯医者にしてはね、今報告出来るのは以上です、きっとまた会える日が来るわジャクリーヌ、戦争が終わるまでは無理でしょうが、それではキスを添えて、あなたの親友、アンネよりと日記を書いた後で本を呼んでいるマルゴーの方を見ると、マルゴーは笑った。
昼休みを告げる西教会の鐘が鳴り、社員達が昼食を取りに事務所を出て行った。
ミープがその様子を事務所から見た後(時計が12時半を指しています。)で隠れ家へとやって来て、エーディトがミープにこれお願いと買ってきて欲しい物が書かれたと思われるメモを渡し、ファン・ペルスはすまないがタバコを頼むと言い、ファン・ペルス夫人がそれとペパーミントティーも、最近あたしひどいめまいがするものだからと言うとミープはだんだん物がなくなってましてと言うと、オットーは手に入る物だけでいいんだよ、みんなねと言った。
アンネはミープに何かニュースは、ジャック見かけた、手紙出したいんだけど、パパが駄目だってと言うと、ミープは買い物から戻ったら話しましょと言った。
オットーがミープにそれと、プフェファーさんはどうなったと聞くと、ミープは明日は無理だそうです、患者さんがいてと言うと、ファン・ペルスは笑い、ファン・ペルス夫人は信じられないと言い、ファン・ペルスは煙草をくわえ、火をつけようとしながらいい根性だと言った。
オットーはミープに明日は金曜だ、伝えてもらえるかな、月曜には仕事を片付けて来るようにと、それ以上は待てない(なぜ待てないのでしょうか?)と言うと、ミープは分かりましたと言った。
クレイマンはプフェファーを隠れ家へ案内している途中でドイツ兵とすれ違い、コートを持って(コードにはユダヤ人の星印が付いているので掃除をしている女性にユダヤ人だと分からないようにクレイマンに脱ぐように言われたのでしょうか?)事務所に入ると事務所にはミープとベップのほかに掃除をしている女性がいた。
クレイマンはため息をつき、掃除をしている女性に怪しまれないようにミープ、覚えてるだろう、うちの販売員のビィンターマンさんと言うと、ミープはええと言うと、プフェファーは驚いた顔をしてヒースさんと言うとミープはプフェファーからコートをもらい、コート預かるわ、(コートにユダヤ人の星印が付いているので掃除をしている女性に分からないようにするためでしょうか?)あちらの景気はいかがと言うとプフェファーはああ、ああと言い、状況を把握すると駄目ですと言うと、ミープはそうと言うと、プフェファーは最悪ですひどいもんですと言うとミープは報告を見たわと言いながらプフェファーを隠れ家の方へ案内した。
隠れ家ではエーディトが包丁でジャガイモをむき、ファン・ペルスが煙草を吸いながらソーセージを作り、ペーターがのこぎりで木を切り、(音が出るのに大丈夫なのでしょうか?)そばには猫がいた。
ファン・ペルス夫人は料理を作りながら本を持ちながら語学の勉強としていた。
オットーはファン・ペルス夫人に語学を教えていた。
ミープがプフェファーを連れて隠れ家へ入るとプフェファーは驚いた顔をしているとファン・ペルス夫人がああ、プフェファーさんエーディトがプフェファーさんと言うとプフェファーはオットーにでも・・・あなた・・・スイスに行かれたんじゃ・・・と言うとアンネがあれはただの作り話と言い、エーディトがどうも、プフェファーさんとプフェファーと握手をすると、プフェファーはああ、奥さん、ああと言うと、ファン・ペルスがソーセージを作るのを止め、手を拭いていらっしゃいと言い、プフェファーと握手をすると、プフェファーはプフェファーですと言った。
アンネはいかが、ここが隠れ家ですと言い、プフェファーはああ、どうぞよろしくと言い、ファン・ペルス夫人と握手をするとアンネは大丈夫、下の人達がお昼でいない時は平気です、あとは1日中しーん、規則は覚えて下さいね、山ほどありますと言うと、オットーはプフェファー先生は規則を無視するような人じゃないよ、ここじゃ怠慢は敵だ、希望は、勤勉にありと言いながらプフェファーの荷物を奥の部屋へと運び込んだ。
ファン・ペルス夫人は笑いながらさすがプロイセンの将校さんと言った。
アンネは朝食は朝9時です、ただし日曜日と祝日だけは11時半と言うとプフェファーは分かったと言い、アンネは昼食は1時15分から45分、その頃、お客様が来ますと言うと、プフェファーは客?と言うとアンネは支援者ですと言うとオットーはいすを引き、アンネはどうぞと言い、プフェファーをいすに座らせようとするとプフェファーはああ、ありがとうと言い、いすに座った。
アンネはラジオでニュースを聞いてから夕食、消灯は10時きっかりですと言った。
ファン・ペルス夫人は笑いながらプフェファーさんにフランス語で話しかけるとプフェファーもフランス語で答え、笑ったが、ファン・ペルス夫人はフランス語をよく知らないからなのか首を振り、なあに?それ?と言うと、オットーは手のひらを上に向けた。
夕食の時にプフェファーはかわいそうに、シャルロッテは、私が田舎へ行ったと思ってる、誰が思います、ここにいるなんて、アムステルダムにと言うとファン・ペルス夫人は笑いながらプフェファーにお野菜をもっといかがと言うと、プフェファーはああと言うとファン・ペルス夫人はプフェファーさん、ん?と言うとプフェファーはああ、どうもと言うと、アンネは私達、幸せですよね?言うとファン・ペルス夫人は何馬鹿げた事を言ってるの?と言うとアンネは馬鹿げてるとは思いません、友達を思って涙にくれてないのが不思議と言うと、ファン・ペルス夫人はちゃんと鎮静剤飲ませてる?静かになさいと言うと、ファン・ペルスはやめろ、せっかくの食事がまずくなると言うとプフェファーは子供は、世界がどうなってるかなど分かってないんですからと言うと、ファン・ペルス夫人はほんと、そうと言った。
ファン・ペルス夫人が寝る準備をしている時にファン・ペルス夫人があたしの枕は、今度は枕が消えたと言うと、ファン・ペルスは俺が食った、枕なんて、俺が知るわけないだろうと言うと、ファン・ペルス夫人はすぐ物がなくなるんだからと言うとファン・ペルスはファン・ペルス夫人にほらと言い自分の枕を投げ付けた。
その話し声はペーターの部屋からも聞こえていた。(ペーターの部屋だけじゃなくて外からも聞こえているかもしれないのに。)
アンネは歯を磨き、(大きい歯ブラシが時代を感じさせます。)プフェファーはアンネと同じ部屋で、シャルロッテの写真を見ていた。
ファン・ペルス夫人があなたの予測なんて外れてばかりと言うと、ファン・ペルスは俺がいつ違う事言ったと言うとファン・ペルス夫人はいつ正しい事言ったのよと言った。
マルゴーはオットーとエーディトの部屋ででも、ちょっと変よ、アンネと同じ部屋なんて、あんなおじさんととオットーと折りたたみのベッドを組み立てながら言うとオットーはまだ子供だ、気にしちゃいないよと言った。
アンネは歯を磨き終わると鼻の下に何かを塗っていた。(漂白剤を塗っているのでしょうか?)
プフェファーは洗面用具らしき物を持って洗面所を空くのを待っていて、ため息をついた。
一緒のベッドでファン・ペルス夫人はほーんと楽しかったわよね、前はと言うとファン・ペルスは前って結婚する前かと言った。
アンネが洗面所での用事を終え、部屋に入るとプフェファーがああ、いつもこんなにかかるのかいと言うと、アンネはどうしてもこれ位は言うとプフェファーはお父さんに一言いわなきゃあ、なと言って部屋を出て行った。
ペーターの部屋からファンペルス夫妻の馬鹿騒ぎの声が聞こえていて、ペーターは眠れなかった。
馬鹿騒ぎの声はオットーの部屋からも聞こえていた。
エーディトはまたよ、夜になると、いつもこの騒ぎ、ホースラルさんなら違ってたわと言うと子供が2人いてまたおめでた、話し合っただろう、赤ん坊が産まれたら泣き声ですぐにばれてしまう、ここは妊婦が、いられるような場所じゃないと言うと、エーディトはでもお産を手伝ってあげられたわ、まだ信じられない、母も子も死ぬなんてと言うとマルゴーはお母さん、止めてっと言い、エーディトはそばにいてあげたら、助かったかもしれないのよと言うとオットーはそれは、分からないと言うと、エーディトはええ、そうね、一生分からないわと言うと(本当に一生は分からなくなるとは・・・。)オットーはこの壁の外にある世界の事は、考えないようにしよう、もちろん辛いが、自分が責任持って守れるのは、家族だけだと言った。
アンネとプフェファー部屋ではプフェファーのいびきがうるさいのでアンネは眠れないでいた。
アンネは起き出して電気スタンドのランプを点け、初潮が来た事に気が付き、洗面台の前で笑顔を作ったが、トイレの中で泣いた。
マルゴーは事務所でアンネに行水の手伝いをしてもらっていた。
アンネは音を立てないようにしているのか靴を脱いでいて、窓の方に行き、カーテンを開けるとマルゴーは駄目よ、開けちゃと言うと(窓のそばで行水なんて、しちゃ駄目だと思いますが。)アンネはでも見たいの、人を眺めるのって、好き、色々想像して楽しむの、どんな毎日を送っているのか、私達がもし・・・と何かを言おうとしていたが止めてしまった。
外では自転車に乗る人たちが行き交っていた。
アンネが外を眺めているとマルゴーがアンネと話し掛け、アンネがマルゴーの所に行くといすに掛けてあったタオルをマルゴーの体に巻くとアンネは私どこか変わったと思う?と言うとマルゴーは変わった?と言い、マルゴーはアンネが何が変わったか気付き、アンネ、あなたと言い、笑いながらアンネを抱き寄せるとアンネはしばらく自分だけの秘密にしておきたかったの、ベップには話した、必要な物買って来てくれたわと言うとマルゴーは良かったわね、ほんとに言うと、アンネはみんな子ども扱い止めてくれたらいいんだけどと言った。
1943年1月、門に白いペンキでダビデの星が描かれたユダヤ人中学校で暖房が効いていないのか教室の中でコートを着た友人達がいて、(暖房だけじゃなく、明かりも点いていません。生徒の数も減っていました。)ハンナがスイスにもユダヤ人学校あるのかな?と言うとジャックはもちろんあるけど、無理に、そこへ行かせるドイツ人はいないと言うとハンナはあの赤い靴置いてったのはまだ信じられないと言い、ほかの友達の方を向き、あれすごく自慢してたじゃない、覚えてる?と言うと、その友達はほんとに見たの?と言うとジャックは床に落ちてた、脱ぎ捨てたみたいにと言うと上着を着て意気消沈の教師が教室の中に入って来た。
ほかの友達が日記はあった?と聞くとジャックは無かった、探したんだけどと言った。
教師が黒板の前に立ち、黒板に何か書こうとすると生徒達は着席したが、何も書かずに泣きながら黒板に頭を叩き付け、すまない、すまない、家内が、夕べ、連れて行かれてと言った。
ミープが自転車を押して歩き、シャルロッテに会い、シャルロッテに先生からよと手紙を渡すとシャルロッテはミープに彼に会った?と聞くとミープは首を振り、ミープはどこにいるか教えてくれないと言うとミープは首を振りながら知らないのと言うとシャルロッテはあたりを見てから箱のようなものを渡し、これ渡してもらいますと言うとミープはもちろんと言うとシャルロッテはありがとうと言うとミープはうんと言うと、シャルロッテは恩に着ますと言うとミープはそんなと言った。
ミープが立ち去ろうとするとシャルロッテは愛してると伝えて、待ってるってと言うとミープはうんと言った。(アンネが誕生日に買ってもらったサイン帳が売っていたと思われるお店が近くにありました。)
ミープが買い物を終えて自転車に乗っているとすれ違ったドイツ兵のバイクとすれ違おうとした時に転んでしまった。
ミープが立ち上がろうとした時に何よ!けだもの!と言うと、歩いて来たドイツ兵達が笑いながらほらほら奥さん気を付けて、助けてやれよ、今忙しいんだと言った。
事務所ではオットー達がラジオを聞いていた。
ファン・ペルス夫人はなんなのよチャーチルって、何が言いたいんだかさっぱりなんだから、これは終わりではない、もしかしたら終わりの始まりかもしれないが、始まりの終わりという事は断じて無いって何の事か分かる?フランクさんというとファン・ペルスは黙れと言い、ファン・ペルス夫人はイギリスにはもっとドイツに爆弾を落としてもらわなきゃと困るのよ、お茶ばっかり飲んでないでと言うと、ファン・ペルスはもう!黙ってろ!全くと言った。
ペーターがラジオに手を伸ばそうとするとファン・ペルスが何やってんだ!触るな!とペーターの頭を叩き、オットーがおいと言い、ペーターは直そうと思ってと言うとファン・ペルスはお前がいじると余計面倒な事になるだけだろうと言った。
エーディトはアメリカはなぜ来ないの?いつまであたし達の事を放って置くつもり?と言うと、オットーは自分達の戦争で手一杯なんだよ、大丈夫、連合軍は必ず来ると言うとエーディトはでもそれまで、持つの?と言った。
アンネの部屋ではアンネがため息をつき、パパ、お願いだからプフェファーさんに私のどこが間違ってるんだか聞いてよ!私は私の机を使いたいだけ!と言った。
プフェファーは僕には大事な仕事があるんです、仕事、わかるかい?それに君が使える場所はほかにもある、ああいう書き物は、屋根裏でだって出来る筈だ、所詮ただの、日記だろ?子供のお遊びだと言うとアンネは子供ですってと言うと(そりゃアンネは怒りますね。)オットーはほらほら、止めなさい、こうしたらどうだろう、ああアンネが、この机を、週に2回使う、時間は、午後4時から、5時半まで、後の時間は先生がここを使うと言うとアンネはでもパパと言うとオットーはそれでいいねと言うと、アンネは納得しない顔ではいと言った。
オットーはアンネにみんながちょっとずつ、我慢しなきゃしょうがないと言うとアンネは私がでしょ?我慢するのはいつも私なんだからと言うとオットーはタオルを投げ、アンネはもう私子供じゃないのよと言うとオットーは先生には机を使う権利があると言うと、アンネは私にはないの?みんなと同じように仕事してるのに、(どんな仕事ですか?)あの人に大事な日記こそこそ読まれたくないのと言うとオットーはそれなら、すぐ解決出来る、これだとベッドの下に鞄を取り出し、鞄に入っていた物を全部出し、ほらとアンネに鞄を渡し、これで、こそこそ読まれる心配はないというと、アンネはありがとうと言うと、オットーはどういたしましてとアンネの額にキスをした。
オットーはアンネが出て行くと投げたタオルを持って椅子に座った。
アンネが部屋に戻るとアンネの机で仕事をしているプフェファーに(日記をこそこそ読んでいるそぶりは少しもありません。)失礼とつくえの上にあった日記を取るとプフェファーはああと言い、アンネが日記を鞄の中にしまおうとするとプフェファーはアンネ・フランクが、僕のせいで勉強出来ないなんて誰にも、言わせないよと言い、残りの日記を鞄の中に入れた。
アンネは咳払いをして、どうもと言い部屋を出て行った。
深夜、アムステルダムでは空襲が起こっていた。
アンネとプフェファーが起き上がり、アンネが悲鳴を上げオットーに抱き付いた。
ペーターは空港が標的みたいだと言い、ファン・ペルスは窓から離れろと言った。
オットーは怖がる事はないよ、イギリスの飛行機だ、助けに来てくれたと言うと、アンネはううん、そうは聞こえないと言った。
ファン・ペルスはペーター、早く降りろと言うとペーターは階段を下りた。
エーディトがろうそくに火をつけているとオットーは何やってる?と言うとエーディトはしょうがないでしょ、みんなは元兵士じゃないのよと言い、ため息をついた。(エーディトの突っ込みが素晴らしいです。)
クーフレルは中日の和田選手に似ている男に私のパートナーの、クレイマンさんだと言い、クレイマンはああ、どうもと握手をし、男もどうもと言い、クレイマンはよろしくと言い、クレイマンがみんなが頼ってるミープと言うと男はどうもと言い、ミープと握手をし、クーフレルはベップと言うと、ベップは初めましてと言い、ファン・マーレンと握手をし、クレイマンはファン・マーレン君だと男を紹介し、倉庫の主任を引き継いでもらう、ベップのお父さんが元気になって、戻ってらっしゃるまでねと言った。
ファン・マーレンが何かを言いかけ、しゃべるのが苦手で、でもよく働くやつをお探しなら、俺が最適ですと言うと、クレイマンはよろしい、ああ、倉庫を案内してあげてくれるかい、ベップと言うと、ミープがあたしが、どうぞと言い、ファン・マーレンを倉庫に案内した。
ミープが販売員が週に1度注文書を上げてくる、それに書かれてる品物は、全部ここにあるわ、うちが取り扱ってる製品は、スパイスとジャムよと言っているとファン・マーレンはこれ闇市で売ったら相当な金になるなと言うと、(すでに怪しさ全開です。)ミープは興味ないわ、ああ、あなたのオフィスはここねと言っている時にファン・マーレンは違う所が気になり、あの青いペンキはと青いペンキが塗ってある窓を指差すとミープはああ、スパイスに光が当たると良くないの、んと言った。
隠れ家ではオットーがミープは何て?と言うと、ベップは信用出来ない、コソ泥だって言ってますと言うとオットーは笑いながらコソ泥、ああ、用心深い人だと言った。
アンネはさやえんどう(それにしては豆が大きいですが)らしき物をむきながら豆をむくのって、退屈、主婦にはなれないわね、囚人になった気分と言った。
オットーはベップに一時雇うだけだ、お父さんが戻ってらっしゃる、もうじきねと言うと、ベップはいいえ、うちの父、癌なんですと言うと、エーディトはこの世は苦しみばかりねと言うとアンネはそれしか言えないの?余計気が滅入るだけじゃない、何でそんな無神経な事言うのよとオットーはアンネ、お母さんになんて事言うんだと言うと、アンネは聞き流せばいいのよと言い、ベップにそれより知ってる?私は辛い時、上に行くの、屋根裏の窓から、お隣のマロニエの木が見えるのよ、とてもきれいな枝ぶりなの、花が咲く頃は、ほんときれい、外を見てると少し、気分が、安らぐ、神様って、意外と近くにいるのかもって思えるわと言うと、ベップは笑った。
プフェファーはそれは本で読んだのかい、ほんとにアンネは物知りな子だねと言うとアンネは救いようがないって言いたいんでしょ、失礼と言い、リビングを立ち去るとオットーも立ち上がった。
部屋でアンネが日記を書いているとオットーが入って来てお母さんに、謝るべきだと思わないかいと言うと、アンネはママといると、たまにすごく疲れちゃうと言うとオットーはお前もそう思われてると言うと、アンネはみたいね、よく言われるわと言うとオットーはお前位の女の子を、若い女性には、よくある事だと言うとアンネはやめて、ほかの女の子と私を一緒にしないでよ、違うもん、私は、アンネ・フランクと言うとオットーはアンネ、お母さんはお前の味方だ、ファン・ペルスさんにも反論してた、友達だと言うとアンネは友達なんかじゃなくていい、母親でいて欲しいの、尊敬出来る母親、お手本になって欲しいのと言うと、オットーはお母さんは、暖かい女性だし、妻としても、従順だ、我慢強くて、愚痴もこぼさないとオットーが言うとアンネはいつもそうやって肩を持つ、でもパパがママにするキス、私やマルゴーにするキスとおんなじ、女として愛してないのよと言うと、オットーは飲んでいたカップを置き、図星だったのか2度と言うな、日記を取り上げられちゃあ嫌だろうと言うと、アンネは、パパと言い、ため息をつき、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい、だけど、どうしても考えちゃうの、ママと私、すごく違うんだもん、まるで、昼と夜、私の事ちっとも分かってくれないしと言うとオットーはお前は、分かろうとしてるのかと言った。
アムステルダムでは雪が降り、鐘が鳴っている西教会を屋根裏部屋からアンネは見て、アンネは屋根裏部屋で寝ていた。
運河の中の白鳥の映像が一瞬映り、アンネは夢を見ていて、アンネはスケートをしていて、向こうからアンネの従兄弟のベルント・エリアスらしき人がやって来てアンネと一緒にスケートを滑っていた。
ペーターがアンネと声を掛けるとアンネは目を覚ました。
ペーターは袋を担いでいた。
ペーターは大丈夫?と言うと、アンネは私眠っちゃったんだ、いつからそこで見てたのと言うと、ペーターは今来たとこ、ほんと、豆、取って来た、もう下の従業員みんな行っちゃったからと言った。
ペーターが立ち上がると袋から豆がこぼれ落ち、アンネとペーターは笑った。
ファン・マーレンがスパイスを調合する部屋で何かを盗み、青いペンキが塗ってある窓が気になり、あたりを見回すと何か細い物でペンキを剥がし、剥がした箇所を覗くと建物が見えた。
クーフレルがやって来てそこで何をやってると言うとファン・マーレンはあの後ろの建物は?と言うと、クーフレルはあれはうちのじゃない!と言うと、ファン・マーレンはそうですかと言うとクーフレルは昼食の時間だろ、さあ行け、ほらとファン・マーレンを追い出した。
夜のアムステルダムにドイツ軍の車が次々とやって来るのをジャックはカーテンの引かれた窓から見ていた。
ドイツ軍はユダヤ人を次々と車へ乗せた。
ハンナの家もノックされ、ハンナの父親ははい、ユダヤ人ですと言った。
ハンナの父親はろうそくの火を吹き消した。
ハンナはハビーを抱きかかえ、ハンナの父親は鞄を抱えて家を出た。
ファン・ペルスは事務所で帳簿を見ていて、アンネは近くで本を読んでいた。
ファン・ペルスは丸めた紙らしき物を投げ、ため息をつき、帳簿がどんどんいい加減になってると言った。
プフェファーが左手にりんごを持って事務所にやって来て、前の事務所のカーテン、また開いてると言うと、アンネは週末はいつも開いてますよ、先生と言うと、プフェファーはああ、そうだったよね、忘れてたと言い、笑い、それじゃあ、僕はどうやって新聞を取りに行けばいい、まあ、誰も見てないだろうと言い、事務所を出て行った。
アンネはそうやって始まる、誰も見てない、誰も聞いてないって油断し始めて、それから?と言うと(プフェファーもお前に言われたくないと思っているでしょう。)プフェファーはりんごを食べ、階段へ上って行った。
プフェファーと入れ替わりで袋と猫を抱えたペーターが事務所にやって来ると、アンネはどうもペーターと言うとペーターはやあと言った。
ファン・ペルスはパン持って来たか、鍵よこせ、俺が取って来ると言い、ペーターはファン・ペルスに鍵を渡すとファン・ペルスはその猫下に下ろせ、アホに見えるぞ、母さんの毛皮でも、首に巻いているみたいだと言い、ペーターの頭を叩き、しっかりしろと言うと、ペーターが抱えていた猫が鳴いた。
ファン・ペルスが立ち去った後でアンネはあなたへのおじさんの態度ひどいと思うと言うとペーターは気にしないで、煙草が切れちゃうんとああなるんだと言うと、(ニコチンの恐ろしさが分かります。)アンネは笑った。
猫が鳴きながらペーターの肩を下り、ペーターは笑いながら笑顔が素敵だよと言うとアンネはほんと?と言うと、ペーターは目が、キラキラ、輝いて、きれいな目だと言うと、アンネは私、きれいじゃないもんと言うと、ペーターはきれいだよと言うと、アンネはそんな事ないと言うと、ペーターはでも、ほんとだから信じてと言うと、アンネは笑った。
ファン・ペルスはスパイスを調合する部屋に入り、スパイスを嗅いでいて、鼻がムズムズしたのか、ポケットからハンカチを取り出し、くしゃみをしたが、その時に財布を落としたが、その事に気が付かず、ハンカチをポケットにしまい、その場を立ち去った。(随分と仕事熱心ですね。)
落ちている財布をファン・マーレンが見つけると財布の中からお金を抜き出したのは言うまでもなく、周りには人がいて、ファン・マーレンはあたりを見回すと電話をしている男がいて、ファン・マーレンは電話をしている男の肩を財布で叩いた。
ファン・マーレンはクーフレルの所に行き、帳簿を付けているクーフレルに財布を投げるとクーフレルはああ、どこへ行ったかと、探していたところだ、ありがとうと言い、財布をポケットに入れるとファン・マーレンはじゃあ、その財布、社長の?と言うと、クーフレルはああ、そうだよと言うとファン・マーレンはゆうべ、倉庫の中入ったんですかと言うと、クーフレルはそうだと言うと、ファン・マーレンはなぜ?と言うと、クーフレルは君に説明する必要はないと言うと、ファン・マーレンはちょっと前、ここに、フランクって言う人がいたんですよね?ユダヤ人のと言うと、クーフレルはそれが何かと関係あるのかね?と言うと、ファン・マーレンはその人今は?と言うと、クレイマンは彼は、消えたと言うと、ファン・マーレンはああと言い、笑い、消えたと言うとクーフレルはああ、そうだ、さあ、仕事に戻りたまえ、もし賞金を狙ってるのなら、力になれず済まないねと言うとファン・マーレンはいや、これで十分ですと言って笑いながら立ち去った。
ミープは何かを指差して、配給券を提出して何かを受け取った。
1943年11月、昼休みファン・マーレンは電話をしていた男に後ろの建物には絶対、誰かが住んでると言うと、電話をしていた男はかみさん、ここの掃除やってんだ、誰かいれば気付くさ、以前怪しいやつを見たらしいが、販売員だったと言うと、ファン・マーレンはみんな誰かかくまってるご時世だ、だが、隠れてんのが、ユダヤ人だと、俺達までやばいと言うと電話をしていた男は社長知ってんのか?と言うと、ファン・マーレンは社長?ヘッ、奴は嘘つきだ、それは分かってる、事務所の連中はみんな何かコソコソやっている、クレイマンはしょっちゅう上の倉庫に行くし、ベップって秘書も、記録のチェックをばかりしてる、ミープは特に怪しい、何か隠してると言うと、電話をしていた男は関心がないのか、関わりたくないのか、ほっとけと言って立ち去った。
隠れ家ではクーフレルが彼を首にするのは危険です、何かあるとにらんで、ゲシュタポに密告しかねません、ユダヤ人1人につき、25ギルダーもらえるんですからと言うと、クレイマンはですが、商品を盗んでるのが事実なら、余計な事はしない筈ですと言うとオットーはああ、そうだな、今後はいっそう用心しないと、全員でと言った。
ファン・ペルス夫人がファン・ペルスの財布を持って最後の100ギルダーだったのにと言い、財布を投げ付けるとこれからどうしたらいいの?と言うと、ファン・ペルスはふん、お前の派手なドレスを1着でも売れば、何とかなるんじゃないかと言うと、ファン・ペルス夫人はやれるもんならやってみなさいよと言うと、ファン・ペルスはわがまま言うなと言うとファン・ペルス夫人がよくもそんな口きけるわね、一体誰のせいでこうなったと思ってるのよと言うとエーディトはもう、怒鳴り合うのは止めて下さい、何かあるといつもぎゃあぎゃあ夫婦げんかと言うとファン・ペルスはあなた力になるって言えないの?と言うとエーディトはちょっとあなたと言うとオットーは頼むよ、互いに非難していても何にもならないだろうと言うと、ファン・ペルスはこっちはもうカツカツなのよ、お宅に会社の儲け独占されて、うちの主人にいくらか払うべきだと思わない?ん?彼の鋭い鼻があったらこそ、スパイスやれるようになったくせにと言うと、エーディトは今までの不満をぶちまけるかのようにだからホースラルさんにしようって言ったのよと言うと、オットーはエーディト、頼むよと言うとファン・ペルス夫人はそんな話しあったの?と言うと、エーディトはええ、そうよと言った。(ファン・ペルス夫人は11月なのに薄着です。)
それ以来、両家は伝えたい事は手紙で伝える事になり、オットーはプフェファーさん、ちょっとお願いしたい事が、すまないが、これを、ファン・ペルスさんに、急ぎで伝えてもらえますか?返事を待っているとねと言いながら手紙を封筒にしまい、封筒を渡すとプフェファーはええ、分かりましたと言い、オットーはため息をつき、ファン・ペルスに手紙を渡しに階段を上った。
手紙の内容はシーツを返してもらうようにと言う内容らしく、ファン・ペルス夫人はあちらが返せってとおっしゃるんなら、こんなシーツ、残らず返しますとも、気に入ってたわけじゃないんだから、はっきり言ってどれも生地がよれよれ、そうでしょ?(プフェファーはそんな事言われてもって思ってるだろうな。)あちらこそ自分達の食器使うべきよ、人の使ってないでと言いながらプフェファーにシーツを渡し、ファン・ペルス夫人はドアを開け、よろしく、プフェファーさんと言うと、プフェファーはどうもと言い、シーツを返しに行った。
ファン・ペルス夫人は手紙を書いているファン・ペルスに食器の事書いといてねと言うと、ファン・ペルスは分かったと言いうなずき、ファン・ペルス夫人は気取ってんじゃないわよと言うと、ファン・ペルスはまたうなずいた。
食事の時間は会話がなく、エーディトがため息をつき、プフェファーさん、ファン・ペルスさんにお塩まわしてもらえるか聞いて下さる?と言うと、オットーはため息をつくとアンネは立ち上がり、塩を取りに行き、塩をエーディトの前に置き、(テーブルクロスまで別々です。プフェファーは両家のテーブルクロスの中間にいます。フランク家はワイングラスを使い、ファン・ペルス家はコップを使っています。プフェファーはコップを使っています。もちろんほかの食器も別々です。プフェファーはファン・ペルス家の食器を使っています。)アンネが椅子に座ろうとする時にオットーのワイングラスを落とすとファン・ペルス夫妻は笑い、ファン・ペルス夫人は今回はうちのじゃなくて良かったわと言うと、アンネとペーターはテーブルクロスの下に潜り込み、割れたグラスを拾っているとファン・ペルスがペーター、席に戻れと言うと、アンネはいいのよ、私のために叱られる事ないと言うとペーターは席に戻ろうとしたが、またファン・ペルスに頭を叩かれ、ファン・ペルスにたく、何やってんだ、座ってろと言った。(プフェファーの困惑する顔が印象的です。)
ファン・ペルスがため息をつくとアンネはもうあきれちゃう、大人の自覚持ってよ、こっちの身にもなって欲しいわ、私達子供が、どんな気分でいると思う?たいしたお手本よねと言うと、オットーはその通りだ、ここでいがみ合ってる状況ではないと言うと、スープの入っている食器のふたを開け、立ち上がり、ファン・ペルスにお皿をと言い、手を差し出すとファン・ペルスはため息をつき、立ち上がり、オットーにお皿を渡すとオットーはスープ?それともおかゆ?と言うとファン・ペルスはおかゆをと言うと、オットーはお皿におかゆをつぐとプフェファーさん、すまないが、渡してもらえますか?ファン・ペルスさんにと笑いながら言うと、アンネも笑い、プフェファーも笑いながらフランクさんから、ファン・ペルスさんにと言い、おかゆの入ったお皿を渡した。
その様子を見ていたマルゴーは笑っているとファン・ペルスは野菜食べなさい、マルゴーと笑いながら言い、野菜の入ったお皿を渡した。
ファン・ペルスが椅子に座るとああ、なぞなぞいくよアンネ、足が4本、羽が4枚なーんだ?ん?と言うと、アンネは何?と言うとファン・ペルスは、ん?馬だと言うと笑い、プフェファーも笑った。
ファン・ペルス夫人は何で馬なのよ?と言うとファン・ペルスは笑いながら馬さと言うと、ファン・ペルス夫人は羽なんか無いわと言うとファン・ペルスはだから2匹、ハエが止まってんだよ、ん?と言うとファン・ペルス夫人はもう、食事中にと言うと、ファン・ペルスは笑いながら、まったくお前はと言うとファン・ペルス夫人は何で馬なの、全然分からないと言うとファン・ペルスはだからしっぽにハエが2匹止まってんだよと言った。
アンネが机で日記を書いているとプフェファーがやって来たので日記を書くのを止め、屋根裏部屋でペーターが木をかんなで削っているとファン・ペルスにペーターと呼ばれ、エーディトとファン・ペルス夫人はラジオを聞きながら料理をし、オットーは本を読んでいた。(ファン・ペルス夫人に語学を教えていた時と同じ本です。)
アンネは屋根裏部屋で日記を書き、ファン・ペルスはファン・ペルス夫人に散髪してもらっていた。
アンネはオットーに本で身長を測ってもらい、エーディトは壁に身長の所に線を引き、アンネは見て、こんなに背が伸びたと言った。
プフェファーは鞄を持ってスクワットをして体を鍛えていた。(カーテンを開けていいのでしょうか?)
アンネは洗面所で日記を書き、プフェファーは足踏み式の治療器具でファン・ペルス夫人の歯を治療していた。(それで体を鍛えていたんですね。しかし、そんな事をしていたら見付かると思いますが。)
アンネはベッドの中で映画スターの雑誌を読んでいた。
看病していたマルゴーがお母さんが飲みなさいってと言うと、何かが入っている食器を渡すとアンネはインフルエンザって、ほんと嫌、咳が外に響くんじゃないかって心配でと言いながらマルゴーに渡された食器の何かを飲んでいて、西教会の鐘が鳴るとアンネは鐘の音大好き、人生が私達を待ってるって気がして来るわ、何が1番懐かしい?外の世界でと言うとマルゴーは分からない、多すぎてと言うとアンネは私は全て懐かしい、1つ決心したのと言うと、マルゴーは何?と言うと、アンネは戦争が終わったら思いっ切り生きる、旅行したり、外国語勉強して、パリかロンドンへ行きたい、歴史を学ぶ、歴史大好きと言うと、マルゴーは素敵な夢ねと言うとアンネは欲張り過ぎかなと言うとマルゴーはううん、私も色々考える、パレスチナの話を読んだの、あっちへ行って看護婦になろうかなと言うと、アンネは時代はきっと変わるわ、モダン(時代を感じさせる言葉です。)な女になろうねと言うと、プフェファーがジャケットを着ながらアンネの部屋に入り、アンネはプフェファーを見て、マルゴーとアンネは笑っていた。
プフェファーは手を洗った直後なのかハンカチで手を拭き、鼻を拭いた。
プフェファーはアンネ達の方を見て、部屋を出て行くとマルゴーとアンネは笑い、アンネはあの顔と言った。(プフェファーが出て行った直後に笑っていたので、プフェファーには聞こえていたと思います。)
1943年クリスマス、PEACE 1944とチョコレートで書かれたケーキ(字幕では平和な新年をと書かれています。直訳すると平和 1944です。)がオットーの手によって切られ、ミープがうん、ええと言うとオットーはほんとに嬉しいよ、ミープというとミープはうん、配給切符が足りなくてこれで精一杯と言うとファン・ペルスはだが、切符が無くても、これは、手に入る、おい、やったな、善意の提供者だと言い、シャンパンを開けると泡が飛び、クーフレルが当然ですがと言うと、ファン・ペルスは泡が飛んだ事に気が付き、おーっと、ああ、すまんと言い、クーフレルは匿名を希望しておいでですと言い、泡はプフェファーにもかかり、プフェファーはハンカチで顔を拭き、(ハンカチ歯科医。)ファン・ペルスはシャンパンをコップについだ。
マルゴーは切られたケーキをお皿に置き、オットーはみんなありがとうと言い、クレイマンは勝利にと言うと男性達は勝利にと言い、シャンパンの注がれたコップを持って乾杯をした。
アンネは日記に使うノートらしき物をもらったのか、ありがとうクレイマンさんと言うと、クレイマンに抱き付き、クレイマンはどういたしましてと言った。
プフェファーはため息をつき、この辛さは誰にも分かりませんよ、ミープさんと言い、ため息をつき、みんな冷たい人ばかりだ、特にあの子と言うと、プフェファーはアンネの方を見た。
プフェファーはみんなは家族がいる、私はいない、シャルロッテだけだと言った。
アンネはもらったばかりのノートを持ち、オットーにケーキの乗せたお皿をオットーに渡すとオットーはああ、ありがとうと言った。(暖房が効いていないのか、マルゴーは上着を着ていて、プフェファーもコートを着てマフラーを付けていて、アンネもマフラーを付けています。)
彼女から何か?と言うとミープはうん、と言い、バッグに入っていた物を渡すとプフェファーはああ、ありがとう、ほんとにどうも、メリークリスマスと言うとミープの手を握り、ミープの手にキスをするとミープはいい新年をと言うと、プフェファーはありがとうと言った。
ミープはアンネ、アンネちょっといらっしゃいと言うと、アンネがノートをもってミープの所に行くとミープとアンネはオットーの部屋に入ったが、ドアを閉めなかったのでファン・ペルス夫人がドアを閉めた。(ファン・ペルス夫人もコートを着ています。)
ミープはバッグの中からハイヒールを取り出すとああ、ミープ、何て素敵なのと言うと、ミープはそう?と言うと、アンネはハイヒールなんて始めてと言うと、ミープはサイズ合うといいんだけどと言うと、アンネがハイヒールを履くのと手伝おうとして、はいと言うと、アンネは大丈夫、履けると言うとミープはほんとに?良かったと言うと、アンネは笑い、ミープはああ、歩いて見せて、ほらと言うと、アンネは歩き、笑った。(アンネが椅子に座ってハイヒールをはいている時にスカートから何かが見えています。)
ミープはアンネを見てきれいなお嬢さんになったわねと言うとアンネはほんとにそう思う?と言うとミープはうなずき、思うわと言うとアンネはここできれいにしてるのって大変なの、でもペーターはきれいだって、そう言われたと言うと笑い、笑顔が素敵だよって言うとミープはかわいい笑顔だものと言うとアンネは笑うのを止め、ミープ、ヤンと知り合って、すぐ分かった?と言うとミープは何が?と言うとアンネが聞きたい事が分かったのか笑い、ああ、ええ、この人だってねと言うとアンネはいつ?と言うと、ミープはキスされた時と言うと、アンネはうなずき、笑うとミープはペーターは?と言うと、アンネはううん、まだ、して欲しいなとは思ってる、でもレディはじっと待たなきゃと言うと笑いミープはすぐよ、こんな美人だものと言い、笑った。
ミープとアンネはオットーの部屋から出て、アンネはハイヒールを履いて部屋を出た。
アンネはみんなの前で回って、みんなはハイヒールを履いたアンネを見てファン・ペルス夫人はあーらと言い、クレイマンはおお、これは素敵だと言い、ミープはまあと言い、ファン・ペルスはよく似合ってるよと言い、みんなは拍手をした。
オットーは赤い靴かと言い、笑い、アンネが座ろうとすると転びそうになったのか、あっと言った。
プフェファーはため息をつき、ファン・ペルスはファン・ペルス夫人の毛皮のコートを持ってミープと言うと、ファン・ペルス夫人はちょっと何するの?と言うとファン・ペルスはいいからと言うとファン・ペルス夫人は嫌よ、止めてと言うとファン・ペルス夫人は待て、ミープ、これ売ったら大体いくら位になると思う?と言うとミープはクレイマンさんの友達に、毛皮屋さんがいるから、聞いてみますと言うとファン・ペルス夫人はうちの人は煙草を買うお金が欲しいだけよと言うと、ファン・ペルスは食費がいるだろ言うとファン・ペルス夫人はあなた何もかも売っちゃったじゃない、あたしのドレスも宝石も、それだけは取って置きたいのと言うとファン・ペルスはもういい、黙れ、頼んだよ、ミープと言い、ミープはうなずき、毛皮のコートを受け取り、ファン・ペルスはため息をつき、その場を立ち去った。(エーディトも上着を着ています。)
ファン・ペルス夫人は椅子に座り、ご覧になった通りよ、フランクさん、もうあたしには何も残ってない、戦争が終わっても、人前には、出られないと言うと立ち上がり、ケーキの入っていたお皿を片付けた。
クレイマンは階段を下りながらメリークリスマス、みんな、楽しいクリスマスをと言うとファン・ペルスはメリークリスマスと言うとクレイマンは頭をぶつけてしまった。(とても痛そうです。)
エーディトはミープにもう、行かなきゃ駄目?と言うとミープはええ、ヤンが待ってて(ヤンも一緒に来れば良かったのに。)と言うと、エーディトはため息をつき、少しだけ話を、お願いと言うとミープはうん、うん、うんとうなずきながら言い、クレイマンとクーフレルに手を上げて合図をするとエーディトはドアを閉め、クレイマンとクーフレルは入り口を本棚隠した。
エーディトはみんなの話聞いてた?戦争が終わったら、何も言えない、だって、何て言うの?ファン・ペルスの奥さんって、何でも大騒ぎ、人の批判ばかりするの、子供達の事も色々、うちの子、アンネ、マルゴー、主人は希望を持てって、でも何によと言うとミープはそんな風に考えちゃいけませんと言うとエーディトは分かってる、しっかりしなきゃって、でも、いつまで続くの?と言い、ため息をつき、せめて、いつ終わるか、分かれば、メドが立つのに、ミープ、もう持たないわ、きっと悪い結末が、あたし達を待ってる、あたしは構わない、でも子供達が、あの子達、一体どうなるのかしら?と言った。
アンネは夢の中でハンナが強制収容所にいて、助けて、アンネ、助けて、アンネ、助けて、助けてと言うとアンネはハンナと言い、ハンナの所まで手を伸ばし、ハンナはお願い、助けてと言うとアンネはハンナと言うとアンネは目を覚ました。
目の前にはプフェファーがいて、プフェファーはああと言った。
アンネがため息をつき、その場を立ち去るとプフェファーはああと言った。
アンネはオットーの部屋に行き、泣きながら、パパと言うと、オットーは起き上がり、アンネは見たのと言うと、オットーは何を?と言うとアンネはハンナ、恐ろしかった、じっとこっち見てて、時々あの子にひどい事したのにもう何もしてあげられない、ハンナ、ハンナと言うとオットーはただの悪い夢だと言い、エーディトが起き出して電気スタンドのランプを点け、アンネは大嫌い、ドイツ人と言うと、マルゴーが起き出し、アンネはドイツ人、ユダヤ人を皆殺しにするつもりなんでしょ、ドイツ人なんか死んじゃえと言うと、オットーはアンネ、駄目だよ、そんな事思っちゃ、何人だろうと、悪い人もいれば、いい人もいると言うと、エーディトはどこかへ行き、オットーは例えばミープにクーフレルさん、ヒトラーと同じ、オーストリア生まれだ、2人にも死んで欲しいか?と言うとアンネはううんと言うと、オットーはそれに、我々も、ドイツ人だと言うと、アンネは嘘よと言うと、マルゴーの方を見てオランダ人でしょと言うとマルゴーはもちろんそうよと言うとアンネはオットーの方を見てドイツ人にはなりたくないと言いながら首を振り、絶対嫌と言うとオットーはアンネの頭をなでるとエーディトはほら、鎮静剤よ、気分が落ち着くわと鎮静剤を差し出すとアンネは嫌と言い、首を振るとパパ、お願い、ここで寝かせてと言うとオットーはほら、よーしいい子だと言ってアンネを寝かせた。
1944年4月の夜、事務所に泥棒が侵入しようとしてドアを開けようとしていた。
ペーターがトイレに行くとその音に気が付き、リビングに行くとラジオから音楽が流れていて、(見付からないと思っているのでしょうか?)ペーターはフランクさん、ちょっと来て下さい、事務所を見に行った方がいいかも、今、トイレへ行ったら下で何か物音がしたんですがと言い、ファン・ペルスはそわそわして、ああ、煙草がないと辛い、クーフレルのオフィスにないか、見て来るとしよう言い、立ち上がり、オットーは君はここにいなさいと言い、ペーターははいと言い、オットーは事務所へ行き、プフェファーも僕も行くよと言い、懐中電灯を持って事務所へ行くと、ペーターはドアを閉めた。
泥棒はドアを壊していたが、警官が懐中電灯を持って事務所に行くと笛を鳴らし、待て、こら、待てと言うと泥棒は走って逃げた。
オットー達がリビングに戻り、オットーは警官が来ると言った。
警官はまだ事務所のあたりを見ていた。
オットー達は電気を消してろうそくを点けてじっとしていた。
マルゴーはトイレに行きたいと言うとエーディトはマルゴー、我慢してと言い、アンネは頑張るのよ、国のために、それに女王様、自由と真実と正義と言うとファン・ペルスは生意気言ってる場合かと言うとファン・ペルス夫人はラジオ大丈夫?ラジオ持ってるのバレたらと言うとファン・ペルスは黙れと言うとアンネは持ってなくてもここがバレたら終わりよと言った。
警官は事務所に入り、懐中電灯であたりを照らしたが、そのまま立ち去った。
翌朝、ペーターとアンネが屋根裏部屋にいて、2人の後ろには猫がいて、ペーターはまだドキドキしてるんだねと言うと、アンネは見付かったと思った、ゲシュタポに連れてかれるんだってと言うと、ペーターはもう、大丈夫、もうすぐ、ミープとクレイマンさんが来るよと言うと、アンネは神に祈った、あなたは?と言うと、ペーターはううんと言うと、アンネは通じなくても恨んだりしない、前はお祈りなんてしなかったし、でも見ててくれた、いつもそう、ユダヤ人を見守ってらっしゃる、これからもね、見て、まだこうして一緒、嬉しいと言うとペーターも僕もだと言うと西教会の鐘が鳴るとアンネはほら、ペーター、きれいな音よねと言うとペーターはうんと言うと、アンネは上手く行くって言ってくれてるみたいと言うと、ペーターはそうだねと言うと、アンネのほおにキスをした。
今度はアンネがペーターにキスをし、2人は抱き寄せ合った。
プフェファーは新しい保安措置の件ですが、僕は認めません、断固抗議しますと言うとオットーはプフェファーさん、残念ですが下の階は、止むを得ない場合を除き、一切立ち入り禁止としますと言うとプフェファーは我々を囚人扱いしないでもらいたい、フランクさんと言うとオットーは囚人ですよ、我々は、2度と姿を見られるような事があってはならないと言うと、プフェファーはしかしですねと言うと、オットーはもう決まった事ですと本を読みながら何かを書きながら言うと、プフェファーは僕は認めないと言い、その場を立ち去ると(まさか、下の階に行ったんじゃ・・・。プフェファーはオットーの隠れ家に身を寄せてもらっているというのに。ていうか、この保安措置は最初から決めておけば良かったのに。)本を読んでいたエーディトがプフェファー先生のために、連合軍急いでくれないかしらと言うとペーターがやって来てみんな、ああ、うん、ああと何か言おうとすると、みんなが注目する中、その場を立ち去った。
ファン・ペルス夫人は爪を研ぎながら何だかほーんと、気を付けないと、そのうちここで結婚式なんてねーと言うと、オットーはエーディトの方を見た。
ファン・マーレンがスープらしき物を飲んでいた電話をしていた男に棒を見せてこれが何か分かるか?と言い、棒で机を叩き、ねずみがいると言うと、スープを飲んでいた電話をしていた男は顔を上げてスープを飲むのを止めた。
ファン・マーレンは位置がずれてたと言い、棒を折り、絶対誰か住んでると言った。
1944年6月、隠れ家ではオットー達がラジオからのこちらは、米軍ラジオ放送です、今日がその日です、本日はDデイなり、今朝、6時30分、ホワイトアイゼンハワー将軍率いる、連合軍部隊が、ノルマンディの海岸に上陸しました、厳しい戦いながらも、勝利は間違い無し、西ヨーロッパの市民の皆さん、どうか今しばらく、勇気と信念で、耐えて下さい、1944年は、皆さんの解放の年ですという放送を聞くとオットー達は喜び、プフェファーはラジオにキスをし、オットーはみんな、やったぞと言い、エーディトとファン・ペルス夫人は泣きながら抱き合い、マルゴーは信じられる?アンネ、10月には学校に戻れると言うと、アンネは笑いながら学校?と言った。
アンネは今まで書いた日記の清書をしていた。
ペーターがやあと言うと、アンネはどうもと言い、ペーターは後で、お祝いの会があるのは分かってるよ、だけど、誰よりも先に言いたくてさ、15才の誕生日おめでとうと言うと後ろに隠し持っていた黄色いユリの花を渡すとアンネはああ、ありがとう、ペーター、すごくきれいと笑いながら言うと、ペーターはミープに頼んだ、全財産はたいて、君の笑顔が見たかったからと言うと、アンネは笑い、再び日記の清書に取り掛かった。
ペーターは何してるの?と言うと、アンネはあきれる位無邪気なの、昔の文章、だから書き直し、もし出来たら、将来小説にしたくてと言うと、ペーターは椅子に座り、題名決まってるの?と言うと、アンネは考えてるのは、みにくいアヒルの子の告白、それか、隠れ家と言った。
電話をしていた男が妻にファン・マーレンの事を話したのか、それともファン・マーレンが妻にも話したのか、妻はちゃんと通報しなきゃと言うと電話をしていた男は何でわざわざ、ファン・マーレンなら黙ってるさ、奴には事情があると言うと、妻はでも近所の人は?物音聞いてるかも、水の音、それに話し声、そうだろ?と言うと、電話をしていた男は俺は関わる気は無いと言うと妻は捕まるよ、隠れてるの知ってて、黙ってたってね、何で早く通報しなかったの?どうなるかあんた考えてみた?と言うと電話をしていた男はそりゃ、もちろん考えたさと言うと、妻はいつまでほっとく気?あんたまでゲシュタポに連れてかれるよと言い、ため息をつき、私はどうなるの?ユダヤ人に気使う事無いよ、罰受けて当然なんだから、こっちの命が掛かってんの忘れないでよと言った。
オットーはカーンで戦いがあったと言い、ヨーロッパの地図にエーディトの裁縫箱から借りたと思われる待ち針を刺し、ニュースによれば終戦は、間もなくだと言った。
オットーはアンネに屋根裏にばかりいるのは、あまり良く無いんじゃないかい?自分の部屋でもっと勉強したらどうだ?と言うとアンネはパパ、プフェファーさんがどんな人か知ってるでしょ?と言うとエーディトはお父さんは、ペーターといる時間が長過ぎるんじゃないかって、おっしゃてるのよと言うと、アンネは分からない、それって悪い事?と言うとオットーはいやー、いやー、ああ、ただね、彼が誤解しちゃ困るし、それなりの節度は守らないと言うとアンネは彼が嫌い?と言うとオットーは将来性は、あると思うよ、ああ、でも、ここはちゃんとした恋が出来る環境じゃない、それに、お父さん、まだ、そういう時期じゃないと思うんだがねと言うと、アンネは嫌い、そんな言い方と言うと、エーディトはとにかく、自分を見失ったりしないようにね、それだけよと言うとアンネはもう自分の事位自分で決められるわと言い、オットーの部屋を出て、それに彼、私の笑顔のファンなのと言った。
オットーはこんなもんだろと言った。
屋根裏部屋でアンネは小さい頃から、うちの両親は理想の夫婦だって思ってた、言い合いするのも聞いた事無いと言うと、ペーターがなでている猫が鳴き、アンネはパパはベッドに朝食運んだりもしたのよと言うと、ペーターは笑い、うちの父さんがやったらどうなるだろ?お盆で殴られるなと言い、笑い、それか殴るかと言うと、アンネはママはパパの事、絶対愛してると言うと、鳥のさえずりが聞こえて来た。
アンネはでもパパがママと結婚したのは、いい奥さんになると思ったからかも、その違い分かる?前その事パパに聞いたの、何て言ったと思う?お母さんは従順だ、従順、私はそんな結婚絶対嫌と言うとペーターはアンネの方を見てため息をついた。
食事中にファン・ペルスは後は、ナチス同士、殺し合いさせりゃいいんだ、連合軍の手間が省けるからなと言うと、オットーは来月には自由に、安息日の食事が出来ると言うとファン・ペルスはこんなもの食いもんじゃない、くずだと言うと、プフェファーはお宅の社員達
アンネの伝記の表紙が怖いです。(伝説の少女って・・・。)
これらのアンネはかわいいんですけどね。(上から2番目の黒っぽい服を着たアンネと表紙の怖い顔の右側のアンネとその下の2つの写真のアンネと1番下のアンネ)
隠れ家の朝は7時15分前にファン・ペルス夫人がなる目覚ましを止めて始まる。
アンネが隠れ家に住んでから2年1月が経っていた。
1944年8月4日のいつもと変わらない朝だった。
ミープはアンネにほかに隠れ家に隠れている人達は湿っぽい地下室やすきま風の吹く屋根裏部屋に隠れていると励ましていた。
ミープがそろそろ来る時間だが、ミープはまだ来ない。
タイプライターや電話の音、ミープ達の声で隠れ家の住民の音をカムフラージュしてくれるだろう。
オットーはペーターに英語を教え、1階下ではマルゴーとアンネが本を相手にしていた。
10時30分、灰色がかった金髪を軍隊調に整えた目の細い男が部下を何人か連れてプリンセン運河通り263番地、アンネの隠れ家にやって来た。
男達が隠れ家の表の事務所に入り込んだ。
倉庫係の主任、ヴィレム・ヘラルト・ファン・マーレンは事情を知っているかのように親指を上に立てて、親指を事務所の方に差した。
その時、事務所の作業員のランメルト・ハルトホがそっと出て行ったのを誰も気が付かなかったか、気が付いていたが気が付かないフリをしていた。
ハルトホは二度と戻って来る事はなかった。
ミープは誰か人が入って来るのは珍しい事ではなかったので顔を上げる事はなかった。
しかし、男達は銃を持っていた。
目の細い男は社長のヴィクトル・グスタフ・クーフレルにこの家の持ち主をドイツ語で尋ねたが、クーフレルがピロンさんの物ですととぼけるので苛立ち、この家には、ユダヤ人が隠れていると言った。
男はクーフレルを本棚の所に行くようにと命じた。
男の名は、カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー、SS(ナチス親衛隊)の曹長である。
ジルバーバウアーは33才のオーストリア出身で妻をウイーンに残していた。
ジルバーバウアーはオランダ特有の急階段にまだ慣れていなく、階段を上るのに息が切れそうになっていた。
クーフレルはカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに促されるように本棚を動かした。
本棚の後ろには床から50cm程上にある小さな扉が発見され、カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー達は中へと入って行った。
ジルバーバウアーはアンネの父オットー・フランクに隠れ家にどれ位いたかと尋ねると、オットーは2年1ヶ月と答えると、ジルバーバウアーが信じられないと首を振るとオットーはアンネと姉のマルゴーがどれ位身長が伸びたかを示すアンネとマルゴーの身長を測った後を指差した。
ジルバーバウアーはそのすぐそばにあるオットーがラジオから連合軍がノルマンディに上陸して解放して行った場所を聞き、妻のエーディトの裁縫箱の待ち針を借りて刺して行った地図を見た。
ジルバーバウアーはオットー達に5分時間をやるので身支度をするようにと命じた。
ジルバーバウアーは貴重品がないか探し、アンネの日記を入れていたブリーフケースを逆さまにして振った。
日記とノート、それにばらの用紙が床に舞い落ち散乱した。
……私の日記だけは勘弁して! 日記を焼かれるくらいなら、私も一緒に焼かれた方がましだわ!
アンネは4ヶ月前にこう書いていた。
しかし、アンネは平静を装っていた。
ジルバーバウアーはオットーが第1次世界大戦の時に使っていた軍用トランクのふたにオットー・フランク予備軍少尉と書かれているのを見て、自分より階級が上なのを知ると、オットーになぜその事を申告しなかったのか、申告すればテレジエンシュタットに行けたのにとテレジエンシュタットを湯治場のように言った。
ジルバーバウアーは態度を変え、オットーにゆっくり準備するように言い、部下に手荒な真似をするなと命じた。
1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸して以降、反ユダヤ行動は中止同然になっていた。
オランダの防衛を準備しなければならなかったからだ。
だから、今回の行動は例外的だった。
一オランダ人の通報で行動しただけに過ぎなかった。
ジルバーバウアーはミープに明日また来て動静をチェックしてやると脅した。
ベップは涙で眼鏡がくもって何も見えなかった。
アンネたちが連行された後でミープ達は隠れ家に入ってみる事にした。
隠れ家の鍵はジルバーバウアーが持って行ってしまったが、ミープが合鍵を持っていたので入る事が出来た。
隠れ家の中はすっかりと荒らされていて、ベッドまで分解されていた。
ミープは床に散らばっているアンネの日記を集めた。
ベップも手伝ってくれた。
マルゴーとアンネに貸していた図書館の本やオットーのポータブル・タイプライター、アンネの化粧用のケープも見付かった。
貴重品はナチスの警察が持って行ってしまったので無かった。
ミープは散らばった日記をまとめている作業の中で一度たりとも日記を見る事は無かった。
ミープはベップがいない時にアンネの日記を自分の机の引き出しにしまった。
机の引き出しには鍵は掛けなかった。
ほかの人達の好奇心をかき立てるからだ。
戦争が終わってアンネが戻って来たらすぐに日記を返すつもりだった。
1925年5月12日、オットー・フランクは36才の誕生日にエーディト・ホーレンダーと結婚した。
フランク夫妻はベートーヴェン広場に面するオットーの母、アリス・ベッティ・フランク=シュテルン(アンネの祖母)の住む実家に住み始めた。(フランクは結婚相手の姓、シュテルンは結婚前の姓です。クルム伊達公子のようなものです。ちなみに、エーディトの母親の結婚前の姓もシュテルンです。)
オットーは大学時代、デパートの実習でアメリカに行っていた事があり、アメリカ旅行へも行っていた。
1926年2月16日、マルゴー・ベッティ・フランクがフランクフルト・アム・マインで産まれた。
ミドルネームのベッティはエーディトの16才で亡くなった姉の名前にちなんで付けられた。
1927年夏、フランク一家はマルバッハ通り307番地にあるアパートに引っ越した。
1929年6月12日朝の7時半、アンネ・フランクこと、アンネリース・マリー・フランクがフランクフルトの祖国女性会病院で産まれた。
アンネはあまりにも元気に泣いたからなのか、なぜか男の子に間違われてしまった。
アンネの母とアンネはアンネが生後12日目で退院するとアパートへと戻った。
アンネの母はマルゴーに関する克明なメモを書いていたが、アンネの時は写真と写真の間に素っ気無いメモを残してあっただけだった。
アンネが2人目の子供だったからだ。
アンネの家は裕福で、アパートには家政婦のカーティ・シュティルゲンバウアーの部屋もあった。
アンネの隣に住んでいたゲルトルート・ナウマン(ナウマンっナウマン象を連想してしまいます。)はアンネをこよなくかわいがり、フランク一家とも家族ぐるみでの付き合いがあり、ゲルトルートはフランク一家の料理を食べる事もあった。
ゲルトルートはアンネの母が作るエキゾチックなユダヤ教の戒律にのっとった料理が好きだった。
エーディトは普段はユダヤ教の戒律を厳密に守って料理を作らなかったが、母親が来た時は厳密に守って料理を作った。
ゲルトルートの姉のエリザベートもマルゴーとアンネの服を作った。
フランク一家が住んでいたアパートの大家であり教師であるオットー・ケーニッツアーの子供達、オットー、ハイディ、エーファ(父親と同じ名前の子供がいます。日本では確か法律では認められていません。)はマルゴーとアンネと仲良く遊んでいたが、心からなじんでもらえなかった。
子供達の祖母と大家は親ナチ、つまり反ユダヤ主義だったからだ。
しかし、大家はフランク一家がアパートを2室借り、家賃を滞納しないのでユダヤ人は信用出来ると思っていた。
アンネの産まれた年の10月24日、世界大恐慌が起こった。
オットーはそのような大家のいるアパートにいる訳が無く、1931年3月フランク一家はガングホーファー通り24番地に引っ越した。
しかし、大家は矛盾した事を行った。
フランク一家が去った後で開いたアパートの部屋を再び株式仲買人のユダヤ人に貸したのだ。
しかし、彼は自分をユダヤ人だと思わず、自分をれっきしとしたドイツ人だと思い、ユダヤ人というのはイディッシュ語を話し、黒い帽子をかぶり、黒い服(カフタン)を着てひげを生やしているものだと思っていた。
フランク家は銀行業とバート・ゾーデンで鉱泉業を営み、せき止めやのどの荒れに効くバート・ゾーデン・ミネラル錠を製造していた。
しかし、世界大恐慌の影響か、銀行業と鉱泉業をたたまなければならなくなり、多くの人達がせきや喉の痛みを我慢しなければならなくなり、フランク一家はは1933年3月に経済的な理由からオットーの実家へ戻らざる得なくなった。
銀行はオットーの父、ミカエルが1909年に急死して以来アリスが女手一つで経営をしていた。
オットーをはじめとする多くの人達はヒトラー率いるナチスのやっている事が馬鹿げていて、一過性のものだと思っていたが、オットーの恐れていた事態が起こってしまった。
ヒンデンブルク大統領が嫌々ながら1933年1月30日、ヒトラーを首相に任命したのだ。
あのパワフルなヒンデンブルク大統領が立っているのもやっとの操り人形のような状態であった。
オットーはナチスの迫害から逃れようとオランダのアムステルダムへ移住する決意をする。
まずはオットーが7月にアムステルダム市スタディオンカーデ24番地の3階のアパートに1ヶ月間住み、エーディットとマルゴーとアンネはエーディットの母、ローザ・ホーレンダー=シュテルンが住むドイツ西部のアーヘンへと移り住んだ。
アンネは老人を敬う気持ちがあり、祖母と満員の市電に乗った時にどなたかこの老婦人のために席を立って下さらないかしらと言った。
アンネが老人まで生きられていたとしてもその気持ちは変わらなかったであろう。
オットーは9月15日にジャムを作るペクチン(ゲル化剤)を製造するオペクタ商会を設立した。
オットーの出張中、事務所を取り仕切ったのはオーストリア生まれのクーフレルだった。
事務所の最初の内勤の女性が病に倒れ、長期にわたり休まなければならなくなったので1933年の秋にはもう代員を探さなければならなくなった。
オットーはミープという心強い女性を味方にした。(後にミ−プがフランク家に大きな影響を及ぼすとはその時は思っても見なかっただろう。)
ミープは秘書の様な事をやったり、営業の仕事もした。(私は営業の仕事を敬遠しているのでミープを尊敬しています。)
ミ−プはダークブロンドの髪をした丸顔の小柄な女性たった。
ミープはクーフレルと同じオーストリア生まれで、第1次世界大戦後、11才の時、飢餓と病気に苦しむ子供達への救済活動の一環としてオランダに行き、ほんの数ヶ月滞在して体力を回復してからオーストリアに戻る予定だったが、オランダに一生滞まる事にしたのだ。
養父母はヘルミーネという舌のもつれるような名前を改め、ミープというオランダ流のかわいい名前を付けてくれた。
エーディトは、しばらくの間、アムステルダムとアーヘンを往復していた。
10月にはオットーの母がスイスのバーゼルという所へ亡命した。(アンネの家族がオランダじゃなくて祖母と一緒にスイスに亡命していたら…。なぜオランダに移住したんだろう・・・。オランダがドイツの隣だったからかな。)
12月5日、オットーとエーディトはアムステルダム・ゾイト地区のメルヴェデ広場にあるアパートに引っ越した。
12月20日、オットーはマルゴーとアンネのアムステルダムの住民登録を行った。
まずはマルゴーがアムステルダムに移住し、1934年2月アンネがアムステルダムに移住した。
5月にはアンネはニール通りにあるモンテッソーリ・スクール幼稚園の年長組に入園し、1935年にはモンテッソーリ・スクールに入学した。(アンネがモンテッソーリ・スクールに入学した年は6才で、日本だと小学校に入学するのは7才です。日本と向こうとでは事情が違うみたいです。)
エーディトはアンネは公立の学校よりもモンテッソーリ・スクールの方がアンネには合っていると考えたからだ。
アンネが通っていたモンテッソーリ・スクールでは算数の授業は飛び跳ねて行うなど独自の教育が行われていた。
アンネは5、6才の頃に同じモンテッソーリ・スクールに通っていたソル・キンメルという少年に惹かれていた。
金髪で目の青い、幼い子供に見られるようなおなかの丸々としていた子供だった。
父親がいなくてかわいそうだと思ったからなのか、愉快な子供だったからか、あるいはその両方だったからかもしれない。(キャロルみたいに金髪で目が青いからってなんて事はありませんよね。)
アンネはその子といずれ結婚しようと思っていたが、彼の従兄弟のアプ・ライネルは黒髪でやせていた、こちらの方が間違いなく魅力的だった。(ライアン兄さんみたいなのを想像してしまいました。)
モンテッソーリ・スクールではクラスの半分がユダヤ人で、土曜日の安息日に学校を休む事を承知していた。
アプも土曜日に学校を休み、リースも学校も休んだ。
そこでアンネはリースとある約束をする。
それはリースは同じく安息日で休んでいるイルセ・ヴァーハネルと一緒になり、アンネはレーデルマン家のサンネと一緒になる。
日曜日にリースが学校から戻って来るとアンネは前日に出された宿題をリースに任せる。(要はリースはパシリにされているって事ですよね。)
それから2人は一緒に遊ぶ。
時にはホースラル家で、時にはレーデルマン家で。
モンテッソーリ・スクールを創立したマリア・モンテッソーリは1870年生まれでイタリアで女性で初めて大学の医学部を卒業した。
ドイツでは1933年4月1日にナチスがユダヤ人の商店のボイコット運動を始めた。
ナチスの突撃隊がユダヤ人の商店の前に立ち、ユダヤ系以外の市民が入らないようにした。
ナチスの突撃隊を無視して商店に入ると写真を撮られ、新聞に載せられた。
1933年5月10日にナチスがユダヤ人のハイネやマルクス(キリスト教に改宗していますが。)、ヘレン・ケラー等の書物が焼かれた。
オットーはハイネの詩を愛読していた。
一世紀前のハイネの詩は教科書に載っていたが、作者不詳の詩と教科書に載るようになった。
ハイネはこのように語っていた。
「書物を焼く者は、人間をも焼く」
1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が死去した事により、ヒトラーが実権を握る事になった。
1935年9月15日に帝国市民法が制定され、ユダヤ人は教職の場、芸術界から次第に追放され、ユダヤ人の弁護士はユダヤ人の顧客しか持てず、ユダヤ人の医者はユダヤ人の患者しか診られなくなり、ユダヤ人はドイツ人の45才以下の家政婦を雇う事が出来なくなり、権利を奪われて行った。(なぜ45才以下なのか、私は最初体力の問題だと思っていましたがこういう事でした。)
1935年夏、アンネはスイスのシルスマリアの別荘に行った。(シルスマリアって生チョコのお店の事だと思いました。)
アンネは上半身裸になり、ジャンパースカートで暖かい夏を過ごした。(この時の写真がアンネの伝記にも載っています。)
別荘にはオットーの親戚のオルガおばさん、アンネはオーおばさんと呼んでいた女性や、アンネの親戚が遊びに来た。
1936年夏、アンネは再びシルスマリアを訪れた。
1941年7月、アンネはアリスおばあちゃんにシルスマリアを懐かしむ手紙を送った。
フランク一家はその時にはもう外国旅行自体が許されていなかったからだ。
アンネはバーゼルを訪れた。
バーゼルではオットーの妹の子供のアンネより4才年上のバディことベルント・エリアス(本名ベルンハント)と一緒に過ごした。
ベルントはフランクフルト時代、アンネの乗ったベビーカーをカーブを曲がり損ね、転倒させてしまったが、アンネは無傷で済んだ。
しかし、アンネとベルントは似ているのかとても仲が良くベルントと一緒にスケートをしたりした。
ベルントはスケートがとても上手いのでアンネはベルントを尊敬し、ベルントのようにスケートが上手くなりたいのでスケートの練習をした。
1935年夏にはザントフォールト(オランダの海水浴場)に行き、1937年の夏にはミッデルケルケ(ベルギーの海水浴場)やに行った。
1938年夏にはオットー一家はヨットでベルギーへ旅行へ行った。(相当裕福だった事が嫌でもわかります。)
アンネは母方の祖母をオーマと呼び、父方の祖母をオーミと呼んだ。
マルゴーとアンネはオットーの事をパピと呼んでいた。
この名前の由来について、オットーは他人から幾度となく尋ねられたが、彼自身ヒントは何一つ思い浮かばなかった。
フランス語の父親を表すペールが語源かもしれないが、ドイツ語のパパを表すパピがピムと呼ばれるようになった。
オットーはマルゴーとアンネによく良いパウラと悪いパウラの話をした。
良いパウラはマルゴーの事を指し、悪いパウラはアンネの事を指した。
良いパウラと悪いパウラの話はアリスおばあちゃんの考えた話だった。
一方でローザおばあちゃんはアンネを甘やかし、物事をはっきりと言うアンネはますますつけ上がり、両親は祖母に注意した。
アムステルダム・ゾイト地区の中心には当時としては摩天楼の12階の建物が建っていた。
アムステルダム・ゾイト地区の摩天楼の右側の番地は奇数、左側の番地は偶数に分かれていた。
フランク一家は近所の同じくドイツのユダヤ人迫害を逃れたレーデルマン一家とホースラル一家と親しくなった。
アンネ達はアムステルダム・ゾイト地区のメルヴェデ広場の二等辺三角形の広場に頻繁に遊びに行き、かくれんぼなどをした。
エーディトは流行のおかっぱにしていたがアムステルダムに来てからは髪を伸ばし、うなじのあたりで束ねていた。
エーディトはドイツから亡命したユダヤ人達を招き、オランダ人のイェンネという家政婦は使い物にならないと愚痴をこぼしていた。
エーディトは家政婦や乳母(乳母までいたのか。)に頼る生活をしていたので家事やら子育てやらを自分1人でやらなければならなくなった。
エーディト達は政治や情勢の事を話していたが、子供達が部屋に入って来ると話を止めた。
エーディットはヘイムヴェー(オランダ語でホームシック)という単語はすぐに覚えたが、オランダ語講座に出席したが、2回目で挫折してしまい、マルゴーとアンネにからかわれた。
マルゴーとアンネはオランダ語になじんで行った。(マルゴーはドイツ語を完全にマスターしていた。)
ドイツ語とオランダ語は似ていたが(同じインド・ヨーロッパ語族ですからね。オランダはドイツのすぐ隣だし。)、微妙に文法が異なっていた。
例えばベレンと3回書いていたらベレンはオランダ語ではベルを3回鳴らすという意味だがドイツ語では犬が吠えるという意味なので子供達は子犬の様に3回吠えて見せた。
また、オランダのアパートの玄関に物売りお断りという標識が貼っていたが、子供達はふーん、この家では料理を作らないだってさと笑った。
もちろん、オランダ語の意味を知っての事だった。
ミープの恋人ヤンとミープはマルゴーとアンネ相手にはオランダ語でおしゃべりをしたが、まだ言葉に苦労していたオットーとエーディトにはドイツ語で歓談をした。
ホースラル家の父親、ハンスは1932年ドイツの会社を解雇された。
ユダヤ教の安息日、土曜日を忠実に守り会社に行かず、会社の休みの日曜日に会社に行って何もしない状態だったからだ。
ハンスは元々熱心なユダヤ教徒ではなかったが、第1次世界大戦中に兵士として赴いた東欧のユダヤ教信徒共同体の神秘的な力を知り、熱心なユダヤ教徒になった。
1933年、ハンスに当時まだ創立3年目だったユニリーバ・コンツェルンからロンドンの面白いポストがオファーされたのだ。(ユニリーバってあのユニリーバですか?)
熱心なエコノミストだった彼は家族と共にイギリスに向かった。
しかし、同社はユダヤ教の安息日を認めない、ないしは認めたくないらしい事が判明した時、彼はこの安定した収入を蹴ったのだ。(蹴らなければ良かったのに…。)
次いで彼はパレスチナに移住したいユダヤ人の相談に乗っていた。
相談所は家賃節約のためメルヴェデ広場31番地のアパートに開設された。
事務所の管理は妻のルートが行っていた。
ルートはハンスよりも12才年下で結婚前は教師をしていた。
この仕事のパートナーはレーデルマン家の父親の弁護士のフランツだった。
レーデルマン家の父親は1934年に1回パレスチナに商売に行った事があるが、パレスチナはハエとアラブ人だらけで参ったと話した。(後にハエとアラブ人では済まなくなるのは知る由も無かった。ずっとパレスチナにいればいいものを…。)
フランク家とレーデルマン家とホースラル家の父親は奇しくも同じ1889年生まれだった。
アンネの家にはレーデルマン家の子供達やホースラル家の娘、ハンネリ(ハンナともいう。オランダの子供達はハンナと発音出来ないのでリースと呼んでいた。)などのドイツから亡命したユダヤ人の子供達がよく遊びに来て、食事などもした。
食事は回転木馬のようなものに乗せられ、それを子供達は面白がった。(どんな物かよく分かりませんが、中華料理屋で回転するテーブルのような物でしょうか?)
また、アンネの家には当時としては珍しいセントラル・ヒーティングが備えられていたので子供達を驚かせた。
オットーは助言者であり、友人であり、自分の物語の小箱(テレビ番組のワンコーナーみたいです。)の中を探してはお話をし、アンネの女友達はオットーの話に耳を傾けていた。
オットーが中国の歌を歌うのをアンネとリースは何週間も忘れられなかった。
オットーが中国の歌を歌うのをアンネとリースは涙を流しながら笑った。
エーディトはマルゴーとアンネの健康状態を心配した。
とりわけアンネは病気がちだったので寝たきりになる事がちょくちょくあった。
エーディトの1937年12月27日付の記述では10月以来、アンネはインフルエンザを引きずっていましたが、やっと治ってくれましたが、わがままが気に入ったものだからなかなか学校に行ってくれません。特に気に入っている先生がお見舞いに来てくれましたと書かれている。
アンネはひ弱な子というあだ名をもらっていて、何週間も欠席する事がよくあった。
子供がよくかかる病気、百日咳、水ぼうそう、そして、1936年12月にははしか、次いで熱。
これは幾度となく繰り返し、軽度ではあるが体力を奪っていくような熱だった。
アンネは心臓が悪いんだと言う人もいれば、先天性の心臓奇形でチアノーゼが出ているんだと言う人もいた。
その1年後の1938年春、アンネは何とか体力が付いたがそれでもか弱く見えるこの子には、十分面倒を見てやる必要があった。
アンネはたいてい体育の授業で見学者用のベンチで腰をかけてクラスメートの動きを見ていた。
エーディトの心配はそれだけでは無かった。
アンネは元々肩の関節が外れやすく、倒立とか前転とか側方倒立回転といった、つまりは逆立ちになる体操はアンネにとってはタブーだった。
変な動きをすると、関節の骨頭から外れ、元に戻さなければならないのだ。
しかし、アンネは肩の関節が外れても痛そうにはしないどころか自分で肩の関節を外す事が出来る事に気が付くと、これを遊びとしてクラスの男友達の前でそれを実演して見せて男友達やメルヴェで広場の仲間はびっくりしたり、痛そうに顔をゆがめたが、当のアンネは逆に愉快がった。
彼女は一座の中心になれたのである。
1938年6月1日、オットーはヨハネス・クレイマンという人物の勧めでペクタコン商会を設立した。
ぺクタコン商会はソーセージなどの香辛料を調合する会社だった。
オットーは香辛料の事などさっぱり分からなかった。
しかし、オットーは心強い味方をつけた。
ヘルマン・ファン・ペルスというオットーと同じユダヤ人だった。
オットーと違って神経質ではなく、大雑把でヘビースモーカーだった。(後にこの性格が仇になるとは知る由も無かった。)
ヘルマンは匂いだけで香辛料の種類を当てる事が出来た。
ファン・ペルス一家は元々オランダに住んでいたが、一旦ドイツへ引っ越し、再びオランダに移住した。
オランダのユダヤ人の人口は約1.5%を占め、1796年、ドイツより50年前にすでに市民権を全て認められていた。
彼らは完全に同化し、容認されていた。
ドイツでの何世紀以上にわたる反ユダヤ的偏見、そのくすぶり続ける憎悪はオランダには無かった。
オランダのユダヤ人のうち1割はダイヤモンド産業に従事していたが、裕福な商人は少数であり、大半は薄給の細工師だった。
アムステルダムの大富豪は極めて少なかったが、その大半がセファルディ、祖先が16世紀にスペインやポルトガルからやって来たユダヤ人で、オランダの文化界、経済界で重要な地位を占めていた。
これに対してオランダのユダヤ人の大多数はアシュケナージ、東欧のユダヤ人は工場や港湾で働き、中古屋や露天商、しがない職人として稼いでいた。
その多くは、労働運動のリーダー役を務めていた。
ドイツのユダヤ人と違い、オランダのユダヤ人は我慢するだけではなく、同化し、尊敬されていた。
1938年11月、エーディトの兄、ユリウス・ホーレンダーとヴァルター・ホーレンダーが国家警察に逮捕された。
11月15日にはヴァルター・ホーレンダーがザクセンハウゼン強制収容所に移送された。
しかし、エーディトの兄達はアメリカのビザを持っていたので1939年4月にユリウス・ホーレンダーがアメリカに亡命し、12月16日にヴァルター・ホーレンダーがアメリカに亡命した。
エーディトの親族で亡命したのはエーディトの兄達だけではなかった。
1937年10月、エーディトの親戚、イレーネ・クローンハイム=ホーレンダーの長女ウルズラがアムステルダムに立ち寄った。
イレーネは女性解放運動に共感していたモダンな女性で、ドイツ女性としてはかなり早くに運転免許を取っていた。
イレーネは1936年の時点でもうドイツを去ろうと決心した。
それは特に子供のためだった。
ウルズラは学友に罵倒されるなどしていじめられ、6つ年下の妹のドロテーと同じクラスになってしまった。
イレーネは家具調度品を本来の4分の1の値段でアーリア人に売るはめになってしまった。
3枚の切符しか配給されなかったので母のマティルデ・ホーレンダー=ベルク、次女のドロテーと一緒に1937年2月ドルトムント(ドイツ)からブレーメン経由でペルーへと向かった。
アメリカへの入国許可はすぐには入手出来なかったのだ。
ペルーのリマではイレーネの兄弟リヒャルトが3人の到着を待っていた。
イレーネは当時12才のウルズラをケルン在住のおば(おばは戦争中どうなったんでしょうか。)に預け、ユダヤ人女子中学校の学業を修了させてからリマに来させた方が賢明だと思えたのだろう。
1937年10月、その時がやって来た。
ウルズラ(13才)はポケットに現金20ドルとフランク家の電話番号をポケットに入れてケルンからアムステルダムにやって来た。
約束ではフランク家で食事をして寝泊りして翌日には外洋航路の船に乗り込む予定だった。
オットーはその子をロッテルダムの港まで送る予定だった。
だが、その時、ウルズラの父、ヴァルター・クローンハイム(第1次世界大戦の時に片腕を失っていた)がその話を聞いて娘をアムステルダムまで追って来て出向を阻止しようとした。
イレーネは1933年10月ににヴァルター・クローンハイムと離婚していた。
イレーネがヴァルター・クローンハイムの秘書との浮気現場を取り押さえていた。
ウルズラはドイツでのユダヤ人反対運動や家族とのトラブルでまた悩みを背負わされた。
オットーがヴァルター・クローンハイムが弁護士だったがユダヤ人の顧客が減少していて娘達への扶養料が随分前から払えなかったのでその事を警察に告げるぞと脅すと父親はようやく降参した。(アンネの親戚がどんどん亡命出来る時に安全な場所へ亡命して行きます…。)
1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチスの党員・突撃隊がドイツ国内のユダヤ人住宅、商店、ユダヤ教の教会シナゴーグを突撃した。
いわゆる水晶の夜事件である。
事の発端は11月7日にドイツ生まれの17才のユダヤ人青年、ヘルシェル・グリンシュパンがパリのドイツ大使館付一等書記官のエルンスト・フォン・ラートを射殺した事だった。
皮肉にも、エルンスト・フォン・ラートはナチス体制に疑問を持つ人物だったという。
この事件を煽動し計画したのはナチス宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスだといわれている。
その後、グリュンシュパンはドイツの強制収容所へ送られて1942年9月以降に殺害された(詳細な時期は不明)。
1938年、オットーはユダヤ人を取り巻く状況がいっそう危険になったおりに、再三フランクフルトに立ち寄り、マルバッハ通りのナウマン家を訪れ、互いにニュースを交換した。
ゲルトルートは成人後、ユダヤ人が経営するフランクフルトの繊維会社(そのユダヤ人はその後どうなったのでしょうか?)に事務員として採用され、のちにIGファルベン社(化学工業コンツェルン)に勤務するようになった。
オットーはアムステルダムでの生活について、一方ナウマン家はフランクフルトの政治情勢、ゲルトルートの仕事の進展ぶりと恋人探しについて。(随分とオープンですね。)
ゲルトルートはオットーを見送りに路面電車の停留所まで行った。
オットーはナチスの横暴に怒りを覚え、ゲルトルートに小声でこう言った。
「いま連中に襲われれば二人共捕まってしまうね……。」(ゲルトルートを巻き添えにする気か?)
エーディトの母親の住むアーヘンで水晶の夜事件が発生するまでは帝国市民法が制定されてから同市のユダヤ人は事実上市民権を剥奪されていたが、目立たぬ行動さえしなければ比較的妨害されずに暮らしていける町だった。
ドイツ、オランダ、ベルギーの国境に近いこの町でも水晶の夜の犠牲になった。
市立劇場(もちろんユダヤ人はもう入れなくなっていた)でヴェルディのオペラ、トロヴァーレが上演されていた。
オペラ終演から数時間後、プロナメーデン広場に面するシナゴーグが炎上した。
目撃者の1人がどうやら消防隊は火を消していたようだと後に証言していたが、シナゴーグの屋根から可燃性の化学物質を撒き散らしていたのである。
ちょうど15年前、ヒトラーはこの場所で国家革命を起こしたがさしたる成功も収めず、16人の死者を出し、幾多のケガ人を出し、ヒトラー自身も逮捕されていた。
1939年3月、ユダヤ人の虐殺が始まったのでアンネの母方の祖母は(父方の祖母はすでにスイスに亡命していますからね)アーヘンからフランク一家の家へ移った。
それは実に幸運な事だった。
しかし、ホーレンダー家は二束三文で先祖が築いた財産、土地や建物をアーリア人に売却するはめになった。
オランダはまだ安全だったのか?
1939年初頭、フランク一家は1933年と似た状況に陥っていた。
アムステルダムを去って、再度どこかで再出発しようか?
6年前と同じように考えあぐねていた。
オットー夫妻はまたマルゴーとアンネを根無し草にしてしまうのか?
2人の子は、アムステルダムにすっかりとなじんでしまった。
子供達は新しい土地に対応できるだろうか?(子供達よりも母親の方が心配ですけどね。)
そもそもどこの国へ?
スイス?オランダだって同様に安全ではなかったのか?
パレスチナ?一家はシオニストではない。
アメリカは?誰が身元を引き受けてくれるだろうか?
エーディトの兄ユリウスが先にアメリカに出発し、地歩を固めようとしている。
次いでヴァルターが後を追ったが、その先どうなるだろうか?
南米?ペルーになら親類、友人がいる。
アルゼンチンにも。
ひょっとしてイギリス?(いっその事オランダの植民地だったインドネシアなんてどうでしょう?)
そもそもユダヤ人を心から歓迎してくれる国があるのだろうか?
ドイツのユダヤ人なんてもうごめんだ、どこでもそういわれているのではないか?
エーディトはドイツ出身のユダヤ人は、現在、世界中に当たっていますが、どこにも受け入れられないでいるのだと私は思いますと1937年12月に友人のアイゼンシュッテト夫妻(ヴィリとヘッダ)に宛てている。
マルゴーはアリスおばあちゃんにパパは今日もイギリスに行きますと1937年12月2日付で宛てている。(その時はまだ外国に気軽に出られたみたいです。)
オットーのロンドンの親戚がマルゴーとアンネを自分の所に預けたらどうかと何度か言って来たが、オットーは断った。
オットーにしても、エーディトにしても、家族と一緒にいるのがいいと思っていたからだ。(だったらアムステルダムじゃなくて母親のアリスのいるスイスに亡命すればよかったのに…。)
ナチスがオランダを占領した後ですが、こんな手紙が見つかりました。
戦争前にも米国またはキューバへの移住ビザを得ようと試みていました。
エーディトは、ドイツから更に遠く離れる事を非常に辛く思っていた。
オットーは愉快で何でも聞ける人だった。
しかし、リースの父親も面白味のある人だった。
2月か3月、1938年か1939年のユダヤ人のカーニバル、プリム祭での出来事だった。
プリム祭とはペルシア王クセルクスによる迫害からユダヤ人を救済する祭りで当時はちょうど特別象徴的な意味を持っていた。(この時期からユダヤ人の迫害があったんですね…。)
歴史的な相似を、参加者はひしひしと感じていたに相違いない。(歴史は繰り返すとはまさにその事ですね。)
神殿破壊の後、ユダヤ人はペルシア帝国内で非常に長期間平和に暮らしていたが、狂乱の反ユダヤ主義者たる新大臣ハマンがユダヤ人は王の法に従わないと主張してユダヤ人絶滅についての承認をクセルクス王からとりつけた。
ユダヤ人の王妃エステルは、その残忍な計画を聞き付け、悲嘆と抗議で3日断食を続け、ペルシア帝国内の全ユダヤ人も同じ行為に走った。
これを聞いた王は、自らの過ちを反省し、ユダヤ人ではなく、ハマンの方をさらし首にした。
この粛清の日付は本来くじで決められていたとされ、12番目の月(ユダヤ教暦ではアダルの月)の13日とされてきた。
ヘブライ語ではくじはプルといい、したがってこの祝祭日は後にプリムと呼ばれるようになった。
プリム祭では歌や踊り、貧者への施しのプログラムが入っていたが、とりわけ重要なのは仮装だった。
歴史上、プリムの日、ユダヤ人は突如として迫害されなくなり、それどころか守護される側となった。
もはや軽蔑されず、かえって畏敬されるようになった。
だから、誰もがいつもとは違う役柄、別の外見にならなければならないのだ。
こうなると、互いの身元が分からなくなる。
ユダヤ人なのかハマンなのか。
正体をめぐって混乱が生じる。
お遊びであり、みなが新しい自分になりきる事になっている。
上下の地位も相対化され……。
ホースラル家のプリム祭では子供だけではなく、大人も仮装した。
主人のハンス・ホースラルは髪をいつもオールバックにしていたが、その日はきっちり横分けにし、木炭で細い口ひげをかき、レインコートを着用してフランク家に向かい、呼び鈴を鳴らした。
ドアを開くと棒を飲み込んだように直立の姿勢を取り、口をきりりと結び、目を大きく開いて催眠術よろしくフランク家の人々を凝視した。
内心ではこの驚きの瞬間を楽しんでいたのだが、オットーとエーディトはしまいには吹き出した。(アンネの伝記が原作なのですが、これを見るまでは誰の仮装か分かりませんでした。予告編はこちらで見られます。しかし、この仮装がしゃれにならなくなる日が来るとは…。フランク家の人達は心が広いですね。私がフランク家の人間だったら追い払っていたかも…。)
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した事により第2次世界大戦が始まった。(1945年9月2日まで続きます。)
これにより、ポーランドの200万人のユダヤ人を勢力下に置いた。
1939年9月12日、ラインハルト・ハイルドリヒはポーランドのユダヤ人の集中化を命じた。
これによりポーランド各地のユダヤ人は拷問を受け、略奪され、辱めを受けた。
ポーランドの粗暴なナチスは、敬虔なユダヤ人達のひげを短く切り、無理やりひざまづかせた。
オランダはポーランドの情勢を恐怖の目で追っていた。
ヒトラーは1939年8月31日に、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてスイスの中立は厳格に守ると言っていた。(中立を厳格に守ったのはスイスだけです。)
オランダの人達は中立というキーワードにすがり付いていた。
しかし、ドイツから移住して来たユダヤ人ほど、それに疑惑を抱いていた人達はいなかった。
マルゴーはラジオに聞き入っていて、時代が緊迫していて、オランダはドイツの国境に接していて、ドイツを通り抜ける旅も出来ず、ベルギーとフランスを通過することも不可能です。戦争中なのでビザは発行されませんと1940年4月末に、同年齢の文通相手のアメリカのアイオワ州の小村、ダンヴィルからほど遠からぬ所に住む農家の娘、ベッティ・アン・ワーニータに英語で宛てている。(ドイツ語もしくはオランダ語と同じインド・ヨーロッパ語族とはいえ母国語でない英語で文通するマルゴーがすごいです。)
マルゴーはこの文通相手に、バーゼル(スイス)にすむおばあちゃんに会えない事を残念だという手紙を書いている。
アンネは1月半後の11才の誕生日にベッティ・アンの妹のワーニータに手紙を書いていたが、不安を思わせる文面はごうもうかがわれない。
オットーはアンネの手紙を英語に訳していた。
アンネはこの手紙をこう書き添えている。
「お手紙待っています。いつまでもあなたのオランダの友だち、アンネリース・マリー・フランク」
ワーニータからの返事はアンネにはもう届かなかった。
1940年5月10日の早朝、ドイツ軍がオランダに侵攻した。
重装備の落下兵がハウダ(ゴーダ)近郊に降下し、ドイツ軍が各地でオランダ国境を越え、西方に向かい、多くの落下兵がエダム付近に、ワイクの北方に、偽装した落下兵が、オランダの制服を着込んで、農民用のつなぎ姿で、衛生兵の服装で。
混乱した情報、途方も無い噂、アムステルダムのスキポール空港に爆撃。
オランダのヴィヘルミナ女王は国民に冷静になるように呼びかけたが、だが、その演説だけでは国民は落ち着けなかった。
特にユダヤ人がそうだった。
パニックになる人、気絶する人、ドイツ人はどうするつもりなのか?
この異常事態に一番早く反応したのはおそらく母親だっただろう。
子供の朝食を作るからだ。
母親達は夫に子供たちを学校に送り出すべきかどうかを夫に尋ねた。
子供達は自宅にいた方がいい、アンネも登校しなかった。
それに反し、オットーはいつものように事務所へ出かけたらしい。
仕事に集中する事で心を落ち着けたかったのだろう。
自宅には妻子と病身の義理の母親がいて、心中は困惑していても自分は強くて信頼の出来る男を演じなくてはならなかった。
政府はもう何ヶ月も前から、すなわち、ポーランドで戦争が勃発した直後から食料を配給制にしていた。
ばら色の切符はパンと、青い切符は牛乳と交換された。
ドイツの侵攻を彼は予感していた。
皆が予感していたに違いない。
ドイツ軍の侵攻に一番絶望していたのはドイツから移住して来たユダヤ人だった。
ユダヤ人一家が自殺しか逃げ道が無いと考え、致死量のヴェロナル(鎮静・睡眠剤)を飲んだり、首を吊ったり、あるいは睡眠中に死ねるように閉め切った窓でガス栓をひねったとかいう噂が流れた。
レーデルマン家のバルバラと妹のサンネは向かいの家でガスの充満した充満した男性がベランダで救出されるのを目撃している。(いずれここから遠い所にあるガスの充満した部屋に行く事になるでしょうに。この人はこの後どうなったのか分かりませんが。)
2人はマルゴーとアンネにその事を話したに違いない。
その他大勢のユダヤ人はオランダの脱出を図った。
自動車を持っていたごく少数の人達は海へと向かった。
エイマンデンとかスヘーヴェニンゲンへ。(さだまさしの番組ではスケベニンゲンと言っていました。フローニンゲンという地名もあります。ニンゲンとは地名を表す言葉だそうです。)
自転車でその方面へ向かう人もいた。(公共の交通機関はもう動いていなかった。)
オランダ政府が船舶を用意していて、ユダヤ人避難民をイギリスへ輸送してくれるという噂が流れた。
しかし、脱出に成功したのはごく少数だった。
監視員に捕まったり、監視員の目は逃れたものの、船に乗れなかった人達は全員がっかりして帰らなければならなかった。
フランク一家は脱出しようとしなかった。
まず第一に自動車を持っていなかった。(裕福なのに自動車を持っていなかったのは意外です。)
第二に家族(夫婦、思春期の娘2人、年老いた祖母)5人全員が逃げ延びる可能性などほとんど無かった。
オットーは娘達の子供時代を大事に思い、このままじっとする事にした。
オランダの女王はイギリスの駆逐艦でオランダを脱出し、イギリスへと亡命した。
この地を42年間治め続けてきた女王は、たとえ無力に等しいとはいえ大黒柱だったが、その女王が針のむしろに座らされたのである。
ユダヤ人同胞の事を考えて下さい。
当時59才の女王は(17才で女王様です。メンフィスみたいです。)オランダでの最後のラジオ放送でそう呼びかけた。
その1年前、女王自身にその言葉を誰かから言われる必要があったと言えるだろう。
というのは、オランダ政府が1939年春、ユダヤ人避難民用の収容所を建てる敷地を探していて、最終的には自然景観保護区域ヴェルーエの中のエルスペーテルヴェルトに建設する旨を女王が宣言した時、女王はその地位ならではの無愛想な態度で全く感激を見せずに遺憾の意を表した。
結局収容所は女王の狩猟用別邸から12km離れた場所でなく、はるか遠方、国内でも湿気と寒気の厳しい、北東部のヴェステルボルク湿地帯に建設されたのである。(ドイツが侵攻してからユダヤ人をイギリスに避難させずにテメーだけでさっさと亡命。全く本当にユダヤ人同胞の事を考えて下さいだよ。ローマが侵攻した時に自殺をしたクレオパトラを見習えっての。)
ドイツ軍は5月14日にロッテルダムに爆撃し、ユトレヒトとアムステルダムに今後の爆撃に対する予告の書かれたビラが撒かれ、5月15日の12時12分前にオランダは降伏文書に調印した。
戦争は終わり、オランダは被占領地になった。
ドイツ軍が河地区を横断し、旧市街に入って行った。
ユダヤ人にとっての戦争はこの時始まった…。
しかし、ユダヤ人が書いた教科書が回収されたが、ポーランドで聞いていたような差別や組織的な迫害、ポグロムは無かった。
ドイツ人はオランダ各地に爪あとを残した。
例えば青と白の道路標識にかわってけばけばしい黒と黄色の道路標識が占領した。
それでも人々は慣れて行き、ドイツ人はオランダを占領しに来たのではなく、オランダを守りに来てくれたと思うようになった。(洗脳されているようなものですね。)
多くのユダヤ人は従順を装った。
家宅捜査を恐れるあまり、レーデルマン家ではユダヤ人や共産主義者が書いた本をバルバラとサンネがギョッとしている前で大型の洗濯かごいっぱいの本を焼却した。(ユダヤ人自ら焚書です。)
ヒトラーから占領地オランダ駐在のドイツ高等弁務官に指名されたアルトゥール・ザイス=イングヴァールトは1940年5月29日の就任演説で懐柔的な権威主義とは正反対の雰囲気を醸し出していた。
ザイス=イングヴァールトは我々ドイツ人はこの民族を征服するためではなく…と言ったが、弁護士だったザイス=イングヴァールトは、演説ではなく、沈黙で裁判に勝ってきたと悪口を言われていた。
オランダがナチスに占領されてもマルゴーとアンネは勉強に精を出さなければならなくなった。
もちろんアンネはオランダ降伏にカンカンになっていた。
アンネはオランダ人の学友がドイツ人(モッフィー)の悪口を言っている時には一緒になって罵倒した。
あの馬鹿なドイツ人のせいでスイスに再訪出来なくなっていたがアムステルダムではプールに行ったし、海にもまた行ったようだった。
マルゴーはテニスとボート漕ぎをやったが、アンネは肩の関節を常に気にしなければいけなかったので、そういったスポーツは避けていたのである。
一家が今でも移住できるかというと、合法的な移住はもう出来なくなった。
中立国のスイスでさえユダヤ人の受け入れをほぼ中止していた。(スイスに再訪出来なくなっていますからね。)
エーディトの兄達はアメリカでの生活に慣れるのに精一杯だった。
兄達はマサチューセッチュ州レミンスターで未熟練労働者としてE・F・ドッジ・ペーパーボックス社に雇われていたのである。
ごく狭いまた借りの部屋に住み、仕事はきつく、給料は安かったが、社長の信頼を得ることが出来、社長はフランク一家の身元保証人になってもいいと言い、ヴァルターの社長が身元保証書を送ってくれた事を私は今後も絶対に忘れませんとオットーは戦後、ユリウスとヴァルターの兄弟に感謝した。
だが、その保証書の到着は遅かった。
移住など実際にはもう考えられない時期になっていた。
そこでオットーはオランダ暮らしの質向上を努めるようになった。
ファン・ペルスはスパイスの調合をクーフレルに伝授していたし、会社は上向きだった。
オットーは1940年6月、最古参の社員、クーフレルをペクタコン商会の代理人に昇格させている。
ペクタコン商会の売り上げは過去何年間に比べ、目に見えて上昇している。
しかもオペクタ商会とペクタコン商会は固定費をかなり節約出来た。
両社は社員、倉庫係、店舗、スペースを共有していたからである。
営業が上々となると、スペースが更に必要になる。
両社はドイツ占領から7ヵ月後の1940年12月、アムステルダムの象徴である西教会から50mも離れていないプリンセン運河通り263番地にあった。
18世紀初期(日本では江戸時代です!!)に建てられた、間口が狭い4階建てのくすんだレンガ造りの赤色の建物だった。
隣の建物の隙間はほとんど無かった。
この敷地には建物が2つ建っていた。
前の家(主屋)はオペクタ商会とペクタコン商会が使用し、1階は倉庫、2階は事務室、3階と4階はその他の部屋が何室かあった。
後ろの家には狭い通路を通って行けるのだが、オットーはその一部を知人のユダヤ人の薬剤師、レフィソーンに転貸した。
今度の隣人はこちらと同様の小企業。
アンネはもう以前からオットーにここに連れられて週末事務所に行った事があった。
リースなどの友達と一緒に来た事もあった。
事務所は遊び場と化した。
内線を使えば部屋から部屋へと電話が出来たし、タイプライターを叩いたり、各種の面白いスタンプを押す事も出来た。
窓から水を街路にまく事も出来た。
しかし、アンネは事務所に行かなくなった。
1940年10月、リースに、妹ラケル・ハブリエレ・イダ、初日からの愛称、ハビーが出来たのである。
アンネはそっちに夢中になった。
アンネはホースラル家に行き、リースの母ルートが赤ちゃんに湯を使わせたり、パウダーを振ったり、食事を与えた後でベビーカーで散歩に行きたいとせがんだ。
アンネはハビーがかわいくなっていると1940年12月にバーゼルのおばあちゃんに宛てている。
結局、おばあちゃんは75才の誕生日を孫と一緒には祝えなかった。
これ以上つまらない誕生日が今後無い事を、みんなして望んでますとアンネは祖母宛のバースデーカードにそう記している。
アンネが手紙で戦争について触れたのはこれ以外何も残っていない。
両親がアンネに心配事を感づかせないようにした結果でもあるし、検閲の危険があったからでもあった。
アンネは1941年1月13日にバーゼルに宛ててスケートのことについて書いているが、本当はそれをベルントに伝えたかった。
ドイツは毎週新たな命令を出して行った。
当初はオランダ人全員を対象に命令を出していたが、次第にユダヤ人に照準をしぼって行った。
すでに1940年7月4日にはオランダ人をにせの情報から守るためにオランダ占領地内と大ドイツ帝国とポーランドの放送局のラジオしか聞いてはいけなくなった。
故意にほかの放送を聞いているのを見つかった者は高額な罰金を課せられ、罪が重大な場合は10年の禁固刑に処された。
ほかの放送というのは、もちろんBBCとラジオ・オラニーチェの事を指していた。
ラジオ・オラニーチェとはオランダ王家にちなんで名付けられたものでBBCが運営していた放送局でオランダの女王は1940年7月末以降、週1回ロンドン亡命中にオランダ国民に呼びかけていた。(ヴィヘルミナ女王はオランダ人がラジオ・オラニーチェを故意に聞いていたら罰せられることを知っていたのでしょうか。)
1940年7月16日、ドイツはユダヤ人に対して最初の一撃を加えた。
ユダヤ人という言葉は使わずに、ユダヤ教・イスラム教にのっとった鳥獣の殺害を禁じた。(ホースラル家では肉が食べられなくなったのでしょうか?)
これに打撃を受けたのは信心深いユダヤ人だけだった。
そうした人達はこれ以降菜食主義にならざるを得なかったが、大半のユダヤ人はさほどショックを受けなかった。
これ以上悪くさえならなければ……。
8月には1933年1月1日以降にオランダに移住したユダヤ人全員は外国人課に申告せよという命令が出された。
ごく普通の登録で、それ以上のものではないと。
オットーもこの命令に従い、自身と家族全員をドイツから来たユダヤ人と記入した。
オットーとはじめとする大半のユダヤ人はこの命令に特別な意義を認めなかった。
しかし、この時からすでにドイツ人はユダヤ人問題の解決に手を付けたのである。
それからしばらくして、オットーが予感したようにドイツの被占領地域の経済界からのユダヤ人排除が始まったのである。
1937年のユダヤ人が持っていた財産をアーリア人化したように。
オットーは会社の存亡に危機を抱き、クーフレルとヤン・ヒースは有限会社ラ・サンデーズを設立し、ペクタコン商会の営業を引き継ぐことにし、1年も経たないうちに経済監査局がペクタコン商会の生産を命じて来た。
ユダヤ人は皆、1人千ギルダーまでしか持てないという条項で約7千億ギルダーがナチスの手元に落ちた。
ユダヤ人を合法的に解雇出来るようになった。
オランダの憲法には宗教上の少数者も、ほかの全国民と同様という規定があったが、その憲法もユダヤ人を守れなかった。
この規定の詳細にドイツは注目していた。
新法の基準は人種であって、宗教ではなかったのだ。
パパは背中がリウマチですとアンネは祖母に伝えていた。(背中がリウマチってどういう事でしょうか?背中がリウマチになる事があるのでしょうか?)
ペクタコン商会が解散した後は、本来のプランとは異なり、ヒース商会が業務を続けた。
ヒース商会はラ・サンデーズを手本に設立され、もちろんヤン・ヒースが面倒を見ていた。
ペクタコン商会の機械装置類と在庫品はヒース商会に渡す事が出来た。
オペクタ商会は社長職をクーフレルに譲った。
オットーは2つの自社を救っただけでなく、代理を務めてくれたクレイマンとクーフレル、そしてミープの協力を得てその後も自分と家族に定期的な収入を確保した。
たとえその額が少なかったとはいえ。
オランダの共産党の指導者のパウル・ド・フロートはユダヤ人迫害に対してストを打とうと提案し、1941年2月24日にナチスは土日に何百、何千人というユダヤ人を街路から囚人護送車に連れ込み、どこかへ移送したというビラを配り、ストは大成功した。
翌、2月25日午前10時半には、アムステルダムの路面電車が停まり、全国の何十万、何百万の人達が労働を放棄した。
1941年1月10日、オランダ国内の全ユダヤ人はドイツから移住して来たユダヤ人と同様に記録される事になった。
大半の人達はこの命令を直接の脅威とは感じず、従った。
申告者は登録証明書発行に住民登録課で1ギルダー払わなければならなかった。
オランダ人の役人達は義務感と臆病さ、無知でナチスに協力した。
終わってみるとうちユダヤ人は14万552名、2分の1ユダヤ人1万4千549名、4分の1ユダヤ人5千709名だった。(混血のユダヤ人も登録しなければいけないのですか。)
オットーはマルゴーとアンネには登録のことは知らせなかった。
アンネの事だから、なぜ?どうして?としつこく聞かれるからだ。
1941年1月8日、ユダヤ人はオランダ国内の全映画館への立ち入りを拒まれた。
ユダヤ人を差別することが目的だったが、当のユダヤ人はさほど脅威に感じていなかった。
しかし、映画好きのアンネにとっては事件だった。
アンネはハリウッドスターの美しさと贅沢な暮らしが好きだった。
アンネはハリウッドスターの写真を雑誌から切り抜いて台紙に貼り、コレクションしていた。
だが、代案はすぐに見付かった。
ユダヤ人の親達は映写機、スクリーン、フィルムを借りて来て午後の個人映写会を自分のアパートで催すようになった。(映写機やスクリーンやフィルムは借りられるんですね。)
2月16日、マルゴーは15才の誕生日を迎え、バーゼルのおばあちゃんにたくさんプレゼントをもらったと喜んでいると宛てた。
とりわけ嬉しかったのは本来オランダ人が持っている本ですと書かれたオランダの作家、ヒルデブラントの短編集、カメラ・オブスキュラと名刺ツーピースである。(ピースって単位の事ですよね?名刺何枚分に相当するのか分かりませんが。15才の誕生日に名刺って…。私が女子高生だった頃は3種の神器にうろ覚えですが名刺とポケベルと口紅がありましたが。)
それに、いつものオットーの自作の詩。
マルゴーの誕生日から3日後、ドイツから移住して来たカーンとコーンが経営するアイスクリーム屋、ココで内部衝突が起こった。
ココではユダヤ人達が集まり、政治情勢の事を話していたのでナチスは快く思っていなかった。
そこで、ナチスがココに入って来た時にアンモニアの入った液体をお見舞いしてやった。
しかし、入って来たのはナチスではなく、ドイツの警官だった。
経営者の2人は逮捕され、2週間後にカーンは絞首刑となった。(コーンはどうなったのでしょうか?)
これを口実に在オランダSS長官、ハンス・アルビン・ラウターはユダヤ人のあつかましさを述べ、本格的な組織的虐殺、ポグロムが始まった。
2月22日の安息日の午後、親ナチのオランダ人がヨナス=ダニエル=メイテルに突撃し、無差別的にユダヤ人男性を襲い、カップルや親子を離れさせ、10〜35才のユダヤ人男性427名が逮捕された。
ドイツはオランダ人を軍需産業で働かせ、オランダを併合しようとしていた。
傍観する者、見て見ぬふりをする者は共犯だった。
アムステルダムだけでもスト参加者7名が死に、76名が負傷し、無数の逮捕者が出た。
2月27日、逮捕された427名のユダヤ人が移送されて行った。
後になって行き先がようやく判明した。
ブーヘンバルト強制収容所、後のマウトハウゼン強制収容所である。
オランダに生還出来たのはわずか2人だった。
1941年の春は静かに過ぎて行った。
だが、5月末にナチスはまた法律を発布した。
夏が始まろうとしている時にオランダのユダヤ人は公立の水浴施設(私立の水浴施設なら大丈夫なのですか?あるかどうか分かりませんが。)、プール、公立の公園、保養施設、ホテルの使用が禁止された。
無力な子供達は、自分達が嫌われている事を実感した。
アンネはバーゼルのおばあちゃんに肌を焼くにもあまり方法がありません。プールに入れないからですと宛てている。
おそらく7月半ばに書かれた手紙だった。(これと同じ手紙でしょうか?)
しかし、休暇が始まり、特別エキサイティングな出来事があった。
ヤンとミープの結婚式があった。
式後、オットーは少人数の仲間をプリンセン運河通り263番地の自分の事務所に招待した。
アンネは明るい色のワンピース、白いソックス、肩まで伸びた髪は輝きわたり、ミープの結婚式のプレゼントに銀メッキのお盆を渡し、ベテランウェイトレスよろしくお客さんを上手にもてなしていた。
それから何日も経たないうちにサンネとその両親と一緒にアムステルダムからわずか80km離れたアーペルドールン近郊のベークベルベンに行った。
そこにはサンネの両親(フランスおじさんとイルセおばさん、アンネはそう呼んでいた。)の親戚の牧歌的な別荘があった。
アンネは別荘に滞在している間にバーゼルのおばあちゃんの自宅に天気が悪いとか胃の調子が悪いのでおかゆを食べているという何通かの手紙を送った。
そこの別荘の女主人エーファ・ケンプエルは1才半の息子ライモントを連れていて、アンネはちょっとうるさい(ライモントもお前に言われたくないと思っているでしょう)けどかわいいと書いていたが、おばさんの方はアンネとの付き合い方に本当に困惑していた。
サンネは1人でも満足していたが、アンネは移り気だった。
アンネとサンネは依然仲良しだったが、男の子に対する興味となると、アンネの方が大きくなっていたが、客観的にはサンネの方が美人だった。
アンネの男の子の話なんてくだらないわ!
サンネは姉のバルバラにそう語っていた。
1941年9月半ば、アンネは再度2、3日田舎で暮らしていた。
オットーは14日付の手紙にエーディトにアンネとホテル、フロート・ヴァルンホルンに来ていると宛てていた。
ユダヤ人はすでにホテルの使用が禁止されていたが、ホテルの経営者自身(ホテルの経営はOKなんですか。)がユダヤ人だったかもしれないし、その人がオットーと旧知の仲だったかもしれないし、正義感のあふれた人物でユダヤ人がホテルを使用する事を黙認していたかもしれない。
どのホテルのフロントにもナチスの警官がいたわけではないが、オットーの事を身分証明書で確認する事は簡単なはずだったからだ。
1941年6月以降、オランダ人全員に身分証明書が発行されていた。
写真2枚、指紋、当人のサイン。
オットーとアンネの身分証明書には大きなJの文字が2つ。
JとはJoodのJ、つまりユダヤ人の事である。
ユダヤ人全員が身分証明書にJの文字が付けられた。
どんなJの文字でもいいというわけでない、その形と大きさが厳密に決められ、黒のスタンプインクで所定の場所に押された。
軽蔑の印。
エーディトとマルゴーはオランダに留まっていた。
おばあちゃんの看護のためだった。
おばあちゃんは6月に入院し、手術を受けた。
病名は癌。
回復する見込みはもう無かった。
1941年9月始め、ちょうど新しい学年が始まった時、(日本では4月に新しい学年になりますが、向こうでは9月なんですね。)ユダヤ人の子供達はオランダ人の学友と隔離されて別の学校に行く事になったと発表された。
アンネは不安だった。
なぜなら、夏休みの始めの頃に思っていたように進級出来なくなり、もう1年間、前と同じの女性教師、ヘンドリカ・クーペルス先生に教わるからかもしれないからだ。
担任のクーペルス先生は人気があり、アンネは期待していた。
しかし、アンネはほかのユダヤ人生徒同様、ユダヤ人学校への転校を余儀なくされた。
1941年2月23日に占領軍が設立を命じたユダヤ人評議会の目的はユダヤ人の秩序を打ち立てる事にあった。
10月初めまでに、ユダヤ人小中学校の建物を用意し、ユダヤ人教師を任命し(教師までユダヤ人です。)、カリキュラムと授業計画を作成した。
それが決まるまで子供達は学校に行かなくて良かったのである。
オットーは待機中にアンネが不安がらないように一緒にいたのだ。
アンネはオットーをなんで私、みんなと違ってるの?どうしていじめられているの?と質問攻めにした。
子供達にどう不合理な憎悪を説明出来よう?
説明など不可能だった。
1941年9月15日以降、以前の禁止になっている所も加えると、ユダヤ人は図書館、劇場、博物館、美術館、レストラン、喫茶店、ホテル、スポーツ施設、動物園、そして公園の使用が禁止された。
ユダヤ人は禁止という文字が公園のベンチに、公立の建物の入り口に見られるようになった。
結局10月の初めになってスタトスティンメルトレインのユダヤ人中学校に入学する事になった。
元は木工センターだった。
アンネはリース以外に、同じクラスになる友達が分からない事を不安に感じていた。
1週間後、通常の授業が始まった。
リースとは別のクラスになり、アンネは一番後ろの机に決められた。
だが、アンネはリースと一緒のクラスにしてもらおうと先生にお願いし、女性教師に一緒のクラスにしてもらった。
しかし、リースの記憶では教師がアンネの絶え間ないおしゃべりに耐えられなくなって別のクラスに移されたという。
1941〜1942年の1年間は素晴らしい年になった。
日曜日とユダヤ教の祝日に加えての土曜日に学校が休みとなったからだ。(週休2日制のはしりですね。)
だが、大半の子供達はこうした休みに慣れていた。
モンテッソーリ・スクールに通っていた前年の冬にはもう、暖房費節約のために土曜日は休校になっていた。
マルゴーの授業開始時間も最後の何ヶ月間は8時半ではなく、10時15分前に変更されていたし、各授業時間も短縮されていた。
バーバラ・レーデルマンはユダヤ人中学校に苛立ちを感じ、バレエ学校に熱中していた。
そこでマルゴーはイェテケ・フレーダと親友になる。
バーバラ同様成績は良くなかったが。
アンネは両親にペットをおねだりし、モールチェという雌猫と飼い始めた。
両親は動乱の時期にアンネの心を落ち着かせようと思い、猫を飼う事を許した。
アンネとサンネはモールチェに夢中だった。
アンネはモールチェが大勢の雄猫と会っているので子猫が産まれないか楽しみにしていた。
アンネは何か新しい事を求めていた。
リースはアンネにはまだまだ子供に見えた。
アンネはジャクリーヌ・ファン・マールセンを親友にしていた。
愛称ジャック、父はオランダのユダヤ人、母はフランス人の黒髪、目がすごく大きく、青かった。(目がすごく大きいのは写真を見れば分かります。)
アンネとジャックはシンデレラみたいに王子様が現れないか夢見たり、肉体の成長についての不安を語ったりした。
性的な話題はマルゴー相手じゃほとんど無理だったし、ジャックは自分の姉にすでにいくつかの回答をすでにもらっていた。
アンネリースと呼んでいた非ユダヤ系オランダ人の学友とはほとんど会わなくなっていた。
例えばクラスの優等生でアンネと通学路が同じだったイート・スヴィレンス。
ほんの何ヶ月か前までアンネと机を並べて一緒に宿題をしたリュシア・ファン・デイク。
そのリュシアとは一緒に愉快な歌を歌ってアンネが彼女のサイン帳にあなたのお友達、アンネリース・フランクよりと歌詞ともども記したり、アンネの誕生日パーティーに招いた事もあった。
リュシアの両親はナチ運動に参加し、母親はナチスの3角形の会員章を大事なブローチのように上衣の折り返しに付けていた。
アンネはその事を耳にしていたが、オットーはアンネにリュシアの両親に偏見を抱いてはいけないと諭した。
オットーは2人のNSB党員を自社の代理人に雇っていた。
2人共、真面目に働き、信頼の置ける人物だった。(アンネの隠れ家を密告したという説がありますが。)
リュシアはオランダ版ヒトラーユーゲント、イェーフトスルムに入った。
集会がある時には黒い制服とライトブルーのブラウスを着、一目でそれと分かる黒とオレンジの帽子をかぶっていた。
だが、愛する祖母からあなたがこの帽子をかぶっている限り私の所に来ないでちょうだい。あなたにナチスの何が分かるっていうの?と言われると、リュシアは動揺したが、母はヒトラーはオランダ人に仕事がくれたのよ、ドイツ人と同じようにねと言った。
リュシアの父は失業中だった。
彼女の学友達の半分が消えた訳を誰も説明してくれなかった。
リュシアも尋ねなかった。
恐かったからだ。
ほかの生徒と先生も同様だった。
ナチスはユダヤ人とアーリア人の世界を2分にした。
ユダヤ人は文化界から追放されていたが、自分達で文化を創造していた。
中流家庭で催されていたホームコンサートが頻繁に行われるようになった。
サンネの父、フランツ・レーデルマンはヴァイオリンとヴィオラの名手だったし、夫人のイルゼはピアノを伴奏した。
一緒に楽器を演奏する知り合いの都合に合わせてモーツァルトのピアノ四重奏曲を、あるいはヴェートーヴェンの三重奏曲のいずれかを演奏した。
フランク家の人間は楽器を弾かなかったが、そのようはホームコンサートに行った。
オットーはある移民一家と話していた時、ベルリン出身の女性ジャーナリストでアムステルダムでまだ仕事が見付かっていなかったアンネリーゼ・シュッツ(移民仲間での愛称はシュッツェンリーズル)に若い移民と共にドイツの古典文学を研究してもらおうとした。
毎週、別な家庭を訪問して1室を借り、2、3時間朗読会を催した。
このサークルは各人が役柄を受け持っていてゲーテのエグモントとかシラーのドン・カルロス、そして自由思想の試作を朗読した。
アンネはまだ小さいので参加しなかったが、マルゴーは参加した。
だから1927〜1930年生まれの移民の子供達が芝居の稽古をしていると聞いた時、アンネは興奮した。
アンネは粋で小生意気なハンジ(本名ハンネローレ・クライン)とシュッツ女史にミンナ・ブルム作のオリエントを舞台にしたユダヤ人向け児童劇、鼻のあるプリンスを稽古したらどうかと持ちかけた。
ハンジとシュッツが演出を担当し、ハンジの記憶が正しければハンジは王妃役、アンネは主役を演じた。
モンテッソーリ・スクールでは頻繁に教師が生徒に芝居をさせていた。
アンネの書いた台本にはきらめきがあった。
ウィットに満ちた着想を彼女は的確にまとめ上げた。
1941年のハヌカー祭(正殿献堂を祝うユダヤ教の祭り)の時に鼻のあるプリンセスが上演された。
フランク家同様、フランクフルトから移住して来たクライン家のアパートが劇場に変貌した。
えんじ色のどっしりとしたカーテンがかけられ、両親、兄弟姉妹、友達などの観客は、ぎゅうぎゅう詰めになって見ていた。
アンネは無作法でわがまま、言いたい放題、まさに台本通りだった。
恩知らずで横柄な美人役。
目下の臣下をからかうのだが、ハンサムな男にだけは満足。
プリンセスが禁断の魔法のケーキをつまんだ時、ゆがんだ鼻は大きくなるのだった。
私は善良な人になりたいわ。鼻はあってもいいけど、できれば、無い方がいいわといかにも芝居かかったせりふで許しを請い、素晴らしい土地でとれたワインを飲むと鼻は縮んでハッピーエンドになるのだった。
こうした陽気な気晴らしはフランク一家のような移民にとって1941年〜1942年の厳しい冬を過ごす貴重な愉楽だった。
1942年1月20日、オットーはアムステルダム・ユダヤ人評議会移民部に移住の申告をしている。
だが、どこに移住するかなどどうでも良かった。
実際の移住とは無関係だからだ。
オットーはオランダのユダヤ人は全員自主的に移民したいという旨を申告するようにという命令に従っただけだったのだ。(本当に移住出来れば良かったのに。)
家族各人に書類が配布され、多額の請求書が付いていた。
しかも一人一人にはいかにもユダヤ人らしい、ファーストネームが付されていた。
イスラエルないしはサラ。(サラはアブラハムの正妻です。正妻というからには側室がいたかもしれませんが。)
イスラエル・フランク、サラ・フランク、サラ・フランク、サラ・フランク。
だが、ホーレンダーおばあちゃんの分は申告しなかった。
もう長くはないと思われていたからだ。
実際おばあちゃんは1月29日に癌で死亡し、アムステルダムの近郊の村にある、改革派ユダヤ教信徒共同体の墓地に葬られた。
アンネは生まれて初めて死に直面したのである。
1942年4月29日、SS大尉フェルディナント・アウス・デア・フュンテンはユダヤ人評議会の幹部に6角星型の布、56万9千355個を渡した。
大きさは茶碗の受け皿位、ヘブライ文字を真似てJOOD(ユダヤ人)と書かれていた。
3日間のうちに6才以上の全ユダヤ人にこの星印を付けるように命じた。
どこに付けてもいいわけではなく、どこに付けなければならないか、それについての細かい規定が付されていた。
それはこの星は上衣、(コート、スーツ、ワンピース等々)に縫い付けること。
星を付けずに公衆の場に出てはならない。
つまり、星を付けずに街路、広場、全庭、中庭、ベランダに出た者は逮捕され、厳罰に処す。
Jの字が付いた身分証明書を提示するものは皆、この星を4つ渡され、この星を付けなければならない。
もちろん無料ではない。
1個につき4セント。(1ギルダー=100セント。)
これがなければ肌着も買えない。
ユダヤ人評議会はこの星がユダヤ人を守ってくれる。この星を誇りに思う事と述べた。
太陽や星のような、希望と拠り所を象徴とした黄金の黄色ではなく、不吉なくすんだ黄色。
しかし、子供達は星を誇りに思って付けていた。
相変わらず、ユダヤ人に親切にあいさつするオランダ人もいたし、これはとりわけ学生に多かったのだが、自分から黄色い星印を付けるようになった。
ナチスはこのようなオランダ人を最長6週間はアールメフスフォールト(オランダ)の強制収容所に送ると言った。
ユダヤ人評議会は戦争が終わるのは後1、2ヶ月だと言った。
当初、ドイツはイギリスを屈服させてやるといきまいていたが、その幻想はあとかたもなく消え失せた。
ソ連戦も芳しくなかった。
しかもソ連は政治的に対立していたにもかかわらず、ドイツが1941年12月11日に宣戦布告したアメリカとイギリスに出来るだけ早期に第2戦線を構築するように説得にかかっていた。
だからBBCの放送の聴取者は連合軍のフランス、ベルギーあるいはオランダへの上陸を目前だと思っていた。
市民達は夜間の空襲警報が頻繁に眠りに妨げるられてはいたが、42年5〜6月になるとそれは救いの音に聞こえて来た。
オットーとリースの父はドイツとの戦争は間もなく終わる、この狂気を打ち消してくれるだろうと語った。
6月12日、アンネはテーブルの上に花束やほかのプレゼントの上に一番欲しかった小型のノートがあった。
アンネは前日両親がテーブルにプレゼントを用意していたのを知っていた。
ほぼ正方形。
表紙は赤、オレンジ色などの格子縞でざらっとしたクロース装。
裏表紙から出ているリボン状の細長い金属が、表表紙の小さな留め金でパチンと締まる仕掛けになっている。
開ける時は、脇の取っ手を引っ張ればいい。
その帳面は2、3日前に彼女が父にヴァール通りの、角に曲がった本屋のショーウィンドウで指差した品だった。
アンネの誕生日に発行された公式のユダヤ人週報、ヘット・ヨーツェ・ヴェークブラットにはユダヤ人はすべてのスポーツ、ボート、水泳、ヨット、サッカー、釣りほかを禁じる。
それ以外に2つの嫌がらせ命令がが載っていた。
自転車禁止と夜間外出禁止。
1942年6月12日、登録に必要な書類は買い求める事が出来る。遅くても6月30日までに記入して提出する事と言う命令だ。
自転車を押収する事はないという。
しかし、ドイツの言うことが当てにならないという命令が実施された。
6月22日、在オランダのSS長官、ラウターは全てのユダヤ人は、所持する自転車を48時間以内に供出する事だ。
しかも、欠陥のない状態で供出する事、予備のタイヤ、チューブも全部。
お母さんの自転車はお父さんの知り合いのキリスト教徒に預けてしまったとアンネは6月24日の日記に記している。
アンネの自転車は12才の誕生日に母からプレゼントされたが、復活祭の休み中に盗まれてしまった。
マルゴーの自転車はいざという時にこっそりと隠し持っていた。(オットーは自転車を持っていたのでしょうか?)
ユダヤ人は夜の8時から朝の6時まで外出出来なかった。
この制限は最終的には更に極端になり、ユダヤ人は上記の時間帯に自宅の庭、ベランダにも出られなくなったのである。
日に日に制限の輪が小さくなって行く…。
アンネは日記帳の前見返しの部分に……どうか私のために、大きな心の支えと慰めになって下さいねと書いていた。
この金曜日の朝、リースがやってきて誕生日の抱擁をした。
2人の女の子は歩いて行った。
公共の交通機関は何日も前からこれまた禁じられていた。
子供達がユダヤ人中学校に行くのに使っていた路面電車が使えなくなった。
アンネの場合は学校に行くのに要する時間が授業の時間と同じ位長くなってしまった。
アンネは日曜日に開く誕生パーティーの計画を練っていた。
レニーおばさん(オットーの妹)、サンネのお母さん、ジャックのお父さん、ペーター・ファン・ペルス、そして最近自分を崇拝するようになったヘロー・シルベルベルフ、それから歯科医のガールフレンド。
アンネはバーゼルのおばあちゃんからお祝いの手紙を誕生日にもらった事を嬉しそうに語った。
アンネは友達と先生に今日のお祝いのクッキーをあげる。もちろんお手製と予告した。
クラスの男子も女子も、それに親友と作った卓球クラブのメンバーももちろん呼んで。
そのメンバーとは、アンネとリースのほかに、サンネ、ジャック、イルセ・ヴァーハネルだった。
マルゴーの友達イェテケも呼ぶ事にした。
ユダヤ人の子供達しか来ないのは今年が初めてだという事はアンネは触れなかった。
イルセのうちには卓球台があった。
アンネの母はとびきりのクッキーを出してくれるだろう。
ピムはアンネのゲームを手伝ってくれるだろう。
誕生日のクライマックスはもちろん映写会。
それはジャックともう手配済みだった。
もちろん名犬リンチンチンの映画で、みんな笑い出すに決まってる。
アンネは毎年パーティーに誰が来ようと芝居を出していた。
これがフランク家最後の大パーティーになった。
その後3週間にわたってマルゴーとアンネは真面目に勉強をしなければならなかった。
マルゴーは相変わらず上位の成績だったが、アンネは数学が全然駄目らしい。
ほかの事にすぐに注意が行ってしまう。
アンネは次第に異性に関心を持つようになり、男子生徒に自分がどう目に映っているか気にして、あれこれと試してみたが、アンネが最も夢中になっていたのが読書、12〜14才に愛読していた作家の一人は、オランダの女性ベストセラー作家で、1920年代に児童書をたくさん書いたシシー・ファン・マルクスフェルトだった。
アンネは夏の滑稽譚を何度も読んだらしい。
だが、アンネが特に気に入っていたのがヨープ・テル・ヘールシリーズの全4巻だった。(戦後に第5巻が刊行された。)
主人公は女の子だったが、ヨープというのは男性名、ヨープは愉快な子で活発な子だった。
ヨープには友達が大勢いた。
ピーン、ノール、コニーといった女の子達。
アンネが一番気に入っていたのがキティーだっだ。
ヨープは父に文通を禁止され、日記を書くようになった。
アンネとジャックは何時間もヨープ・テル・ヘールの世界に入り浸っていた。
アンネはジャックの家に泊まりに行ったり、自分の家に泊まって欲しかった。
アンネはジャックに数学を手伝ってくれと頼んだ。
アンネが詰め込み勉強をしている間、数学の得意なジャックは外で待っていた。
ジャックはアンネの独占欲に困惑した事も、時にはあった。
それに反し、ヘロー・シルベルベルフは、アンネの開放的な性格を気に入っていた。
彼のまたいとこのヴィルマ家でアンネと知り合って以来、アンネの事が頭から離れなくなった。
いずれにせよ、彼は16才になっていた。
6月末に、アンネはまた微熱を出し、ベッドに寝ていなければならなくなる。
だが、熱は伝染しないので、友達を家にあげてもいいと言われた。
リース、もちろんサンネも来た。
ジャックは宿題を持って来てくれた。
アンネが特に驚いたのはキティーが来てくれた事だった。(ヨープ・テル・ヘールのキティーと同じ名前です。)
キティーはあるちょっとした偶然からアンネの病気を知ったのである。
モンテッソーリ・スクールの最後の2年間は2人はあまりおしゃべりをしなかったが、その前はキティーがアンネの事をあらやこれや賛嘆していた。
物語をささっと書いてしまうその能力とか。
キティーはアンネの物語にイラストを付けた事もあった。
だが、10才になった時にアンネはお山の大将になりたがった。
人を外見で判断するようになり、スター達の美しい顔、高価なワンピースを賞賛するアンネにキティーはもう耐え難くなっていた。
キティーがメルヴェデ広場から町外れに引っ越してしまい、通学路がアンネと同じでなくなると、2人はクラス以外では顔をあわせなくなる。
キティーは真面目で内向的で、思慮深い子だった。
キティーはユダヤ人中学校への転校を嫌がった。
両親はこの過激な子にそれを強制するのは無意味だと思い、ユダヤ人の子供達を少人数集めて教えていたヘンリ・ファン・プラーフ先生のところに連れて行った。(この人もユダヤ人?)
キティーはまたアンネにスターの話をされるのかと覚悟していたが、アンネは真面目なおしゃべりをしたのでキティーはアンネを見直した。
戦争の事について、将来の事について。
ユダヤ人の中にはとうにある噂が広まっていた。
ユダヤ人は予告の有無のかかわらず、自宅とか街路でつかまって、引っ張られているという。
当初は若くて未婚の失業している男性だけがドイツで労働させられていると考えられていた。
経済界の強制的なアーリア人化により、ユダヤ人の失業者数はうなぎのぼりになっていた。
オットーも公式記録ではもちろんその1人だった。
1942年6月末、その噂はいっそう真実味を帯びてきた。
ドイツの目的は、オランダ在住の全ユダヤ人を組織的に移送するつもりらしい。
どこへ?
ドイツ?
それともBBCの放送通りポーランドへ?(両方とも正解です。)
実際、アドルフ・アイヒマンとフランツ・ラーデマッハーは6月20日、秘密の電話を交わし、7月半ば以降、4万人のフランス在住ユダヤ人、4万人のオランダ在住ユダヤ人、そして1万人のベルギー在住ユダヤ人を特別移送列車でアウシュビッツの労働勤務へ送る手はずを決めていた。
まずは、ドイツやオーストリアから移住して来た無国籍のユダヤ人が対象となった。
ドイツから移住して来たユダヤ人には故郷への輸送だと嘘もつけよう。
6月26日(金曜日)夜10時、ドイツのSS大尉フェルディナント・アウス・デア・フュンテンはユダヤ人評議会に特別な会合を開くと招集をかけた。
もちろん延期不可とされ、それはちょうど、ユダヤ人が安息日に入ったばかりの時刻だった。(安息日は金曜の日没から土曜の日没まで)
16〜40才までのユダヤ人で警察が監督する割り当て人数は全員が即刻、ドイツでの労働に派遣される。
簡単な労働で、作業の場所はもちろんドイツ国内である。
宗教儀礼はもちろん認められる。
ドイツ側はユダヤ人評議会に1日だけ時間を与えた。
今後毎日何人を用意出来るか、その人数を決定して当方に告げよの事だった。
ユダヤ人評議会は350名ないし370名と回答した。
フュンテンは600名を要求して来た。
ユダヤ人評議会はこれ以上無理ですと答えると、ならば手続きを簡素化すればいいと答えると、ユダヤ人評議会はそれでも不可能ですと答えると、最初の1週間はその人数でもいいが、その後は増員せよとの事。
通告を受けたユダヤ人は全てユダヤ人評議会に申告する事。
同評議会が円滑に移送に協力しないという噂があるが、もしそれが事実ならば厳しい処置をとらざる得ない。
オットーは1942年7月4日付で母親に事態は日に日に悪化しているが、絶対に心配しないように、たとえ連絡がほとんど途絶えてもと宛てていた。(外国との手紙のやり取りはまだ出来たみたいですね。)
アンネは全科目で合格したが、代数だけは補修を受けたにもかかわらず評価は5だった。(10段階評価?)
リースにとってショックだったのは幾何の試験であっさりと落ちた事だった。
2人共進級は許された。
学期の始めに1種の追試験が行われる事になったからである。
夏休みは昼間はベランダでひなたぼっこをした。
アンネが特にご機嫌だったのはアイスクリーム屋に行く時だった。
近所でまだユダヤ人が行けるアイスクリーム屋はデルフィとオアシスだけだったのでそこでユダヤ人たちは顔なじみになった。
ヘローはアンネにアイスクリームをおごってくれるのだった。
アンネは古典的な美人ではなく、マルゴーみたいにきれいではなかった。
ヘローはついこの前まで金髪のウルシュラという女の子に夢中だった。(ウルシュラはどうなったのでしょう?)
しかし、アンネはウルシュラやマルゴーよりもはるかに年少だった。(アンネはマルゴーよりも3才年下なのではるかに年少って事はないと思う。)
アンネはヘローと一緒に、ほんの1ブロック歩いた事もあったし、自宅に招いた事もあった。
アンネの両親も、ゲルゼンキルフェン(ドイツ)出身の若者に好感を持っていた。
いつも行儀が良くて慎重、内気じゃないけど適度に控え目。
ただ、マルゴーだけは彼を見ておかしそうに笑っていた。
気に入らなかったのか?
気に入っていたのか?
アンネと崇拝者が居間のソファーでレモネードを飲んでいたからかも。
2人はオランダ語でしゃべっていた。
醜悪なドイツ人(モッフィー)とは一線を画したかったからだ。
アンネはヘローの話が好きだった。
ヘローの祖父、ヨエル・レヴィはくず鉄を商っていて、アメ車を買っていたが1933年4月にオランダに向かった。
ヘローの祖父は元来オランダの生まれだった。
ヘローの祖父は妻にもうドイツには戻らないのでオランダに来るようにという手紙を送った。
ヘローは12才の時にオランダに行く事にした。
ヘローのパスポートにはJの文字が無かった。
ユダヤ人のパスポートにJの文字を付けたのは1938年10月の事でスイスがドイツやオーストリアのユダヤ人の難民を追い返すためにユダヤ人だと分かるにドイツに命じたのだ。(言うなれば、スイスはユダヤ人迫害に加担しています。)
しかし、名字がシルベルベルフ、ドイツ語読みでシルバーベルクだったのでSSの隊員に駅で止められた。(名字でユダヤ人だと分かったみたいです。)
だが、7、80m先で騒ぎがあり、SS隊員は12才のユダヤ小僧になど構っていられず、そのまま騒ぎの方へと行ってしまった。
ヘローはそのままオランダ行きの電車に乗り込んだ。
ヘローの両親は?
父親は森を抜けてベルギーへと行った。
母親はベルギーまで乗せてくれると約束してくれたトラックに乗ったが、そのトラックの行き先がゲシュタポだった。
数日してやっと解放され、今度はラッキーだった。
トレーラーに乗り、ベルギーへと越境した。
その時持っていたのは服の入ったスーツケースと10マルクだけだった。
ヘローは両親とは暮らさないのか?
ヘローの両親は不法移民でまともな仕事に就けないので生活が苦しいのだ。
ヘローは4年間も両親に会っていない。
ヘローは時々両親から手紙が来るので両親の生活が順調な事を知っていた。
別れてから4年間、3、4回だけだが、両親とも電話をした。
しかし、祖父が反対する。
SD(ナチス親衛隊の保安組織)が回線を盗聴するのでアンネとの電話も緊急以外は出来ないと言った。
アンネはヘローが両親と離れ離れなので偉いと思った。
7月5日(日曜日)ヘローとアンネはアンネの家にいた。
珍しく晴れ渡った空だった。
本来は散歩をする予定だったが、外は暑過ぎたので庭で話をしていた。
アンネはへローの顔をじっと見つめていた。
彼女は髪をかき上げたり、人差し指と中指で挟んだ髪の束を引っ張ったり、それをまたぱっと離したりしながら妙に恥ずかしがりながらヘローの顔をまっすぐと見つめていた。
僕に気があるのかな?
ヘローはそういうアンネの無邪気な色気に魅力を感じていた。
ヘローはアンネにゲルゼンキルフェンのユダヤ人学校の担任の話をした。
先生がシナゴーグに行けと言ったがそんな気が無かったので頭痛がすると言って仮病を使ったが、午後になってとおりで先生とバッタリ。
その時ヘローは上機嫌でローラースケートを履いていた。
バルミツバーのユダヤ人の成人式では祖父がシナゴーグに連れて行ってくれ、ヘローは半ズボンではなく、ニッカーポッカーをはいた。
シルクハットが大きかったので、新聞紙で輪を作り、それを挟んでいた。
ヘローは高貴な冠が外れないように真っ直ぐに歩いた。
ヘローはモーセ五書(トーラー)の中で特別長いところを読む事にしていた。
ヘブライ語があまりしゃべれないくせに、こんなに勇敢なんだと自分でも驚いていた。
ラビ(精神的・宗教的指導者)がヘローの頭に手を置いた時、シルクハットがずれ、前が見えなくなり、最前列にいた友人達は思わず笑ってしまった。
しかし、アンネが気に入ってたのはペーテル・スヒフ。
ベルリン生まれの16才の男の子で義父と実母と一緒にアムステルダムに住んでいた。
最初はゾイデル・アムステルダム通りで今はヴァール通り。
彼はHBSという高校に通っていた。
HBSはアンネの中学校の向かい側にあった。
ペーテル(本名ルッツ・ペーテル・スヒフ)はアンネに微笑みかけていたが、アンネ曰く、ビロード茶色の目をした彼は次第にアンネに微笑みかけなくなった。
しかし、アンネはこの失恋に対して痛手を負っていなかった。
ヘローが気に入れば、親切そうな青い目をした、厚い唇の彼がハンサムに見えてしまう。
ヘローは11才の時からすでに車の運転をしていた。
戦争が始まる前に祖父が車の運転をさせてくれた。(ヘローをなぜか新庄みたいな人だと想像してしまいました。)
あっという間にお昼になった。
ヘローはいったんお昼を食べるために家に帰り、午後に再会する事になった。(これがヘローと会うのが最後になるとは。ていうか、アンネの家で一緒に食べればいいのに。)
フランク家もみんなで昼食。
その後オットーは日曜日の午後の習慣みたいなもので、ヴェーペルス広場のユダヤ人療養所で孤独な老人達のお見舞いをする。
エーディトはキッチンに、ひなたぼっこが好きなアンネは1冊の本を持ってベランダで寝そべる。
マルゴーはひんやりとした室内の方が好み。
3時、郵便配達員が郵便物を持って来た。
差出人の欄を凝視した。
ユダヤ移民センター、アダマ・ファン・ステヘルマ広場1番地。
くるべき時が来た。
オットーに呼び出し状が。
オットーは警戒して常に家を留守にし、知人の家に泊まっていた。
ナチスは新たな手を考えた。
直接本人宛てに呼び出しをかけるのだ。
だが、呼び出しの対象はオットーではなく、マルゴーだった。
ドイツでの労働に行くようにとの事だった。
マルゴーはユダヤ移民センターに出頭すべし。
行き先はヴェステルボルク仮収容所。
エーディトは心を落ち着けようとした。
マルゴーとアンネにはオットーに呼び出し状が来たと言い、ゾイデル・アムステルダム通り24番地のファン・ペルス家まで行き、何かを話し合ったと思われる。
マルゴーとアンネは玄関の呼び鈴が鳴っても絶対に開けないようにと言われていた。
マルゴーはアンネに呼び出し状の事を打ち明けたのだろう。
アンネは思った通り激怒したが、その後は落ち着いた。
その時玄関の呼び鈴が鳴った。
ヘローはこの間の事情を知らなかった。
どうしてドアを開けてくれないんだ?
一緒に会うって約束したじゃないか。
留守にするなら言ってくれればいいじゃないか。
彼はいらいらしながら悲しい思いで帰って行った。
本来は7月16日に潜伏する予定だったが10日早まった。
ファン・ペルス家も1週間後に同じ行動をする。
エーディトが家に帰って来た。
ヘルマン・ファン・ペルスも一緒。
午後5時になり、ついにオットーが帰宅。
エーディトと娘2人がオットーの元に駆け寄ったのは想像に難くない。
翌日の早朝、つまり、12時間後に身を隠す事になった。
パニックは起こらなかった。
転借人ホールシュミット氏、友人、隣人にはスイスに逃亡した事にしよう。
不注意で行き先を行き先を書いたメモをわざと人目の付く所に置いた。(この時期はすでにスイスはほぼ受け入れ中止になっているので疑う人はいなかったのでしょうか?)
猫は置いて行く事にした。
マルゴーとアンネは隠れ家に持って行く物を通学鞄に詰め込んだ。
隠れ家の場所はどこかというアンネの質問にオットーは無視した。
町かしら?
田舎かしら?
一戸建ての家かしら?
それともコテージかしら?
アンネはあれこれと想像した。
オットーも自分の神経の高ぶりを持て余していた。
どうやってホールシュミットの気をそらそうか?
社員のクレイマンとクーフレルに知らさなければ。
プリンセン運河通りの263番地を隠れ家として利用してはどうかというヒントはクレイマンが与えてくれた。
1941年夏の事だった。
クーフレルとクレイマンは何ヶ月も前から家具、食器類、ベッド用布類、予備の食器、全ての生活必需品をこの後ろの家に運んでくれた。
フランク家とファン・ペルス家はユダヤ人だったので家具の持ち出しを禁止されていた。
クーフレルとクレイマンは洗面台とトイレを備えた小部屋もしつらえてくれた。
話し合いが全て終わるとヘルマンはフランク家を後にした。
彼はすぐさまヤンとヒースに話したに違いない。
8時を過ぎるとヘルマン家は通りに出られなくなるからだ。
何週間も前にオットーはミープにこの計画を打ち明けていた。
ミープは普通の仕事のように引き受け、嫌ですと言わなかった。
ミープの辞書には不安と言う言葉はなかった。
ヘルマンがヒース夫妻に午後の出来事を説明するとヒース夫妻は一瞬も躊躇しなかった。
ヒース夫妻はフランク家の服や靴、タオルなどを自宅で預かり、何日か分けてプリンセン運河通りに運ぶ事にした。
ミープとヤンはとても興奮していた。
警察に捕まれば命取りだった。
フンゼ通りの自宅からメルヴェデ広場まで走っていけばいいのだが、スピードを落とした。
2人は機転を利かせてレインコートを重ね着した。
暖かな夏の晩なのでちょっと妙に見えるが、スーツケースと鞄を持って通りを急いだら怪しまれてしまう。
月曜日の午後、リースがアンネの家を訪れた。
しかし、現れたのは貸借人のホールシュミットだった。
リースがエーディトが借りたキッチンの秤を返しにもらいに来たのだった。(裕福なんだから自分で買えばいいのに。)
リースの母がジャムを煮詰めようとしたが、秤が無くては……。
まず、ホールシュミットはそっけなく断った。
ホールシュミットはフランク家の人々がもうここにはいない事を知らないのかと言った。
結局、リースは秤を取りに中に入る事が出来た。
ニュースはは友人の間でたちまち広まった。
スイスにでも逃げたのであろう。
あそこにはバーゼルに親戚もいるし。
食器も洗っていなかった。
オットーは第1次世界大戦の時に将校で、一級鉄十字章をもらっている。
ドイツの将校が逃亡に手を貸してくれたに違いない。
ヘローも、この国外逃亡の噂を耳にしたが、ショックは受けなかった。
ドイツにいた時に1人の学友が突然姿を消したのだ。
1939年10月27日、警察は彼と両親を追放した。
ポーランド国籍のユダヤ人だからという理由で。
1万7千人が追放された。
当時ポーランド政府はパスポートの期限を10月29日まで延長していない外国在住のポーランド人全員の入国を拒否したがっていた。
ヘローはこの状況を甘受せざるを得なかった。
ヘローはアンネがどうなったかも調べなかった。
リースとジャックは記念品や日記帳を探しに再三フランク家のアパートを訪れた。
マルゴーの友人イェテケはフクロウ・シリーズという最新詩集の第1巻を、とはいっても小冊子だったが、マルゴーの本棚から取り出した。
いや、盗んだつもりではなくて、戦争が終わってマルゴーが戻って来たら返すつもりだった。
アムステルダム・ゾイド地区ではパニックになっていた。
7月15日以降、1日350名のユダヤ人に労働のための呼び出し状が来ていた。
一部の人間は家族に迷惑がかかると思ったり、そんなにひどい目に遭わないだろうと思ったお人好しの人は命令通りに申告した。
だが、大半の人達は不安のあまり逃げ道を探した。
フランク家のように潜伏に成功した人達もいたが、本当にドイツ勢力圏外に逃亡出来たのはごく少数だった。
その他大勢の人達はなんとかしてもらおうとしていた。
ユダヤ人評議会で仕事をしている者とか、ユダヤ人の日常生活に必要不可欠な仕事をしていると証明出来る人は、しばし安堵出来た。
また、中立国のパスポートの所持者や南米の国民も対象外となった。
そうしたパスポートはスイスで高値で売られていた。
ホースラル一家はラッキーだった。
おじがパラグアイのパスポートを用意してくれたのである。
ドイツから来たユダヤ人でも親兄弟、子供や近い親戚がパレスチナに住んでいる者はパレスチナ・リストに載った。
ドイツ人の捕虜の交換用に利用するためだった。
ホースラル家にはパレスチナに住んでいる親戚はいなかったが、父親がイスラエル国家樹立に生涯を捧げた退役軍人だったのでパレスチナ・リストのリスト2、退役軍人で載る事が出来た。
どんなわらであれつかむ価値はあった。
上司は従業員のために証明書を送付した。
この人物は会社のために必要不可欠ですと。
医師達は診断書を発行した。
ドイツ保安警察は焦りまくった。
思うようにユダヤ人が集まらなかったからだ。(つかむわらが多いですからね。)
1941年2月を上回るユダヤ人狩りが行われた。
ユダヤ人専用の路面電車に強引に乗り込み子供・女性が同伴していようといまいとユダヤ人男性を捕まえた。
オランダ人の歩行者達はこの非人道的な場面を嫌悪と不安の目でじっと見ていたが、あまりにも怖かったので介入する勇気は無かった。
ユダヤ週報は本日アムステルダムで約700名のユダヤ人が逮捕されたと伝えた。(ユダヤ週報の人達もわらをつかんでいるのでしょうね。)
次にドイツ保安警察から脅迫状が届いた。
もし命令通りに4千人のユダヤ人がドイツの労働に申告して来なかったら逮捕したユダヤ人700名をドイツの強制収容所に送る事とする。
オランダでストライキが起こると思われていたが、実際には何も起こらなかった。
7月15〜17日にかけて連続3夜、特別列車が2本、各々に700名のユダヤ人を乗せてアムステルダムを去った。
感傷的になる事は無い。
単なる労働なのだから。
7月17日、ヴェステルボルクからさしたる支障も無くアウシュビッツへの列車が走った。
ヴェステルボルクに新たな引き込み線が作られた。
同日のうちにオランダ在住の全てのユダヤ人の国籍が剥奪された。
その数日後、ユダヤ人のアパートの電話が止められた。
ここの生活も悪くは無い、自分で料理も出来るし、パパの使っていた社長室へ降りるとラジオを聞く事も出来るとアンネは潜伏してから3日も経たないうちに日記に書いている。(いくら夜中や休みだからって隠れ家から出ちゃ駄目じゃないか。)
ルバーブやイチゴ、チェリーなどのパイの材料も手に入ったと日記には書かれていた。
アンネにとっては冒険いっぱいの休暇みたいであり、1938年のブスムのオートキャンプにも勝る体験だっだ。
しかし、もうひなたぼっこをする事もジャックに会う事もヘローの面白い話を聞く事も出来なくなっていた。
1942年7月6日(月曜日)早朝の7時半、ミープが約束通りメルヴェデ広場のアパートのドアをノックした。(余談ですが、私の父が同じ年月日に生まれました。)
まずはミープとマルゴーは自転車に乗って隠れ家へと向かった。
見ただけではオランダ女性2人が勤務先へ向かうようだった。
ミープは表面ではそしらぬ顔をしていたが、その仮面の下では不安が渦巻いていた。
マルゴーが自転車に乗っていたのも十分に規則違反だったが、更にユダヤ人の星印を付けていないという重大な規則違反を犯していた。
ずぶ濡れになってミープの案内で後ろの家に着くとマルゴーは1人きりになった。
すぐに両親とアンネが来るので不安は無くなるだろうと考えて自分を慰めた。
両親とアンネはマルゴーが出た後ですぐにアパートを後にした。
戦争が終わったらメルヴェデ広場に戻れる。
2、3週間かもしれないし、2、3ヵ月後かも。
アンネは荷物を少なくするために服を何枚も着込んだ。
ユダヤ人は随分前からナチスから住所移転を禁じられていた。
3人は1時間掛けて隠れ家へと歩いて行ったに違いない。
最初は河地区の広い通りを何本か、次いでアムステルダムの旧市街の小道を何本か、更には無数の橋を越え、雨にもめげず、スピードを落として頑張った。
もしユダヤ人が走っていれば逃亡と見なされて足止めを食らう可能性があった。
雨はフランク一家を味方してくれた。
ナチスはわざわざ雨の中を出歩かないだろう。
3人がプリンセンフラハト通り263番地に着いた時には雨が止んでいた。
雨が止んだ後、何度か日差しがのぞいたが、フランク一家は気が付かなかっただろう。
事務所と隠れ家へと通じるドアを閉めると彼らの生活空間は50平方メートルになった。(事務所に誰もいない時は社長室や倉庫に行ったりしていましたが。)
事務所と隠れ家へと通じるドアを隠すための本棚をベップの父親が作ってくれた。
後ろの家の3階にはかび臭い部屋が2室、片方の部屋は幅が3m、奥行き5m弱、もう一室はこれよりはるかに細くて幅は窓と同じ位。
マルゴーとアンネにはこれで十分だろう。
天井はかなり低いが、がっしりとした角材で出来ていて、空気を取り入れる仕掛けになっている。
その隣はトイレのあるスペース。
洗面台と水道、残念だが水しか出ない。
トイレも備えられている。
水道管と排水管が壁の中を通っていたので、もし下で仕事をしていている時に水を流せば反響音が聞こえて潜伏者たちの存在がばれてしまうのでこの時間帯には使えない。(あちらでは水洗トイレがもう普及していたのですか。日本ではまだ普及していなかったというのに。)
4階はリビングとキッチンになっていた。
そこにはいくつかの戸棚とレンジそれに流しが備わっていた。
本来はペクタコン商会が実験室として使っていた所だった。
ここは1週間後にファン・ペルス夫妻が使う事になっていた。
昼間は潜伏者全員が使うダイニング兼居間の予定。
その隣には小さな部屋がある。
更にその上の木の階段を上れば屋根裏部屋へと行ける。
フランク家とファン・ペルス家7人、それにファン・ペルス家の喉をゴロゴロ鳴らす猫、ムッシーが計50平方メートル(うちとどっちが広いんだろう)の隠れ家に潜伏する事になった。(アンネは猫を置いて行ったというのに…。)
ていうか、薬剤師はどこに行ったのでしょう?
各部屋は独房のように狭い。
夏は部屋を閉め切らなければならないのでむっとするだろう。
冬は貧弱な石炭ストーブで我慢しなければならない。
だが、独房と決定的に違う点が何点かある。
監獄の場合はは自分がどのような立場にいるか分かっているし、囚人は定期的に中庭の戸外に出られる事が出来る。
アンネ達は絶対に戸外へ出られない。
唯一外へ出られるとしたら屋根裏部屋だけだった。(屋根裏部屋って外ですか?)
屋根裏部屋からのぞく隣の庭のマロニエの木が季節の変化を教えてくれた。
晩になり、倉庫係の人達が帰宅すると支援者達は注意しなくていいと言った。
皆は勇気を出して前の家に行ってみた。
アンネは狭くて風通しの悪い、暗い役員室と言っていた所で勉強をしたり、この建物の中で一番立派な部屋で黒味がかった、どっしりとした調度、リノリウムの床に敷かれたじゅうたん、ラジオ、しゃれた電気スタンド、どれをっても一級品を備えた社長室でラジオを聞いたりした。
ただし、小さな音で。
とても広く、明るく、いろんな物があふれているとアンネが書いていた、ミープ、ベップ、クレイマンが使っていた主事務室は入室禁止だった。
プリンセン運河通りに面していて、特大の窓を通して外の歩行者に丸見えになる可能性があったからだ。
エーディトとマルゴーは隠れ家に到着後、憔悴しきっていたが、オットーとアンネは生活出来るように準備をしていた。
布を縫い合わせて窓に張り、夜はボール紙を張らなければならない。
光が一筋ももれてはならない。
アンネは数ヶ月前に母親が修理に出しているのよと言っていた家具達と再会した。
オットーがトランクや小箱から映画スターと王子・王女の写真を取り出した時、アンネはぱっと顔を輝かせた。
オットーはアンネにこれらの写真を壁に貼ってみなさいと言った。
これらの貴重な品々はこれからの異常な生活と外との正常な生活の橋渡しをしてくれた。
アンネはハインツ・リューマン、グレタ・ガルボ、レイ・ミランドのポートレイトの間にヨーロッパの王室のほっぺたのふくらんだ子供や、細い金髪のカールをした子供達、例えばエリザベス女王の写真を入れ、そのわきにレオナルド・ダ・ヴィンチやレンブラントそして、ミケランジェロのピエタの複製を貼った。
オットーは秩序好き、正確好きだったのでプロイセン将校というあだ名が付いた。(オットーは実際将校だったし。)
オットーは初日から皆に隠れ家の規則に慣れてもらおうとした。
夜は邪魔が入らない方が少なかった。
ベッドで休むといっても、それは何か来るべきものに備えているようなものだった。
急患の入る医者や、寝ている赤ん坊を守っている母親とか。
空襲警報が鳴り、どんな音も倍に大きく、不気味に聞こえる。
朝は遅くとも7時半に起き、8時半までには洗面などを終え、衣服を着替え、寝場所を整頓する。
ベップの父、倉庫係主任のヨハンネス・フォルキュイルには全て打ち明けてあったが、交代でやって来る方の倉庫係には気付かれてはならない。
緊張のうちにミープの来訪を待つ。
ミープは食糧品をはじめとする必要な物のリストを受け取りに主事務室から後ろの家へこっそりやって来て、ニュースを2、3伝えると去って行く。
彼女の夫、ヤン・ヒースは福祉事務所で働いていて昼になると毎日プリンセン運河通りで食事をするのが日課だったが、そのヤンとかクレイマン、クーフレル、ベップと並んでミープは外界との唯一の結び役だった。(ミープだけなら唯一だけどほかの人もいるので唯一というのはちょっとおかしいと思います。)
若き妻、ミープはどんな緊張状態の前でも友人達の前で顔をゆがめたり、落ち着きを失う事は無かった。(友人たちの前でなければ顔をゆがめたり、落ち着きを失ったりしていたのですか。)
だが、午前中は彼女は2、3分以上ここに留まっている事は無かった。
倉庫の誰かがミープを探しに来たらどうなるか?
ミープはお昼か午後になったらまた来ると言って去った。
12時半までは学校の遅れを取り戻すための勉強や、ジャガイモの皮などをむいたりした。(当時は皮むき器など無かったから大変だっただろうな。)
屋根裏部屋には何トンもの貯蔵されていたジャガイモは潜伏中の主要食品だった。
彼らは孤児院と隠れ家をそう呼ぶようになった。
西教会の鐘の音は普段は大人達は普段はうるさいと感じていたが、昼の12時半ばかりは下校を知らせる鐘の音を聞く子供のように聞いていた。
ようやくこれで解放され、午後の自由な時間になるからだ。
社員は1時間半、自宅に戻る。(お弁当を持って来た人はいなかったのでしょうか?それとも皆家が近かったのでしょうか?ていうかお昼休みが1時間半ってうらやましいです。)
音を立てても構わない。
トイレも自由に使える。
1時15分前、皆がどんどん上がって来ますとアンネは昼休みと題した短編の中で記している。
次々にリビングキッチンに上がって来るのはおとなしいベップ、ヤン・ヒース、時にはミープも。
しんがりはクーフレルかクレイマンどちらか暇な方。
日刊紙をオットーとヘルマンに渡す。
デ・テレグラー誌とフレイレフォフク誌。
どちらもドイツの厳格な検閲を受けているから、戦争の進捗については気をつけて読まなければ。
支援者達は毎回オットーとヘルマンに商売の話をしていた。
オットーの会社、ペクタコン商会とオペクタ商会は、その時にはもう、前者はヒース商会で社長はクーフレル、後者はクレイマンが社長になっていた。
どちらの社長も何かをする時にはオットーの助言、了解を得ていた。
潜伏者達からの期待に満ちたまなざしが、支援者達は決まりの悪い思いがした。
しかし、彼らからしてみれば、今でもオットーがボスだった。
たとえ、ポストを辞めていたとしても、支援者達から物資を受け取らなければ生きていけなかったとしても。
隠れ家の人達はニュースに飢えていた。
事務室はどうなったのか?
隣近所は?
知人捕まったのか?
新たな反ユダヤ人命令は出たのか?
色々な疑問が湧き出て来るが、いっぺんに聞くのは支援者達の負担になるので聞けなかった。
アンネはリース、レーデルマン家、ジャックは私がどうなったかを聞いていなかったか、飼っていた猫、モールチェがどうなったのかをミープやベップに聞いた。
過去の世界への想いが、いかに大きかろうとも、アンネは男性の支援者達には尋ねようとはしなかった。
5時半、やっと支援者の1人がやって来る。
ミープかベップの場合が多かった。
……私達に自由をプレゼントしてくれるとアンネはうまい表現を使っている。
その時は全員、社長室で大きなフィリップス受信機の所に移動して、反ドイツの放送、とりわけBBC放送に周波数を合わせる。
緊張しながら英語のニュースを聞くのだ。
その後、大層な事にオランダ国家が流れて来てラジオ・オラニーチェの放送、つまり、BBCのオランダ語放送が始まる。(ちょっと待って下さい!オランダ国民はラジオ・オラニーチェを故意に聞いていたら罰せられますよ!!オランダ国民が罰せられてもいいんですか?)
オットーとヘルマンはファイルに目を通す。
どんな郵便が、注文が来たのか知りたかったからだ。
ミープはマルゴーとアンネに簡単な事務の仕事を頼んだ事もあった。
それは自分の仕事を楽にしたいからではなく、2人の女の子の気を紛らわさせるためである。
ペーター・ファン・ペルスはよく倉庫に行っていた。
時には飼い猫のムッシーも連れて行った。
マルゴーとアンネは昼間体を動かせないので体操をした。
アンネは問題の関節に負担がかからないように。
9時にはもう就寝の準備に入らなければならない。
テーブルとスツールを動かし、ベッドを押す。
隠れ家の周りの大半は事務室や工場で誰もいないと分かっているが、大きな音がするので緊張が走る。(今の日本でいう、丸の内か大田区あたりでしょうか?)
朝はちょくちょく水での行水で我慢するが、夜はたっぷりとおめかしをする時間がある。
たらいに水やお湯を張ってバスタブ代わりにする。
潜伏者達は各々行水をするお気に入りの場所がある。
ペーターはわざわざガラス戸のあるキッチンで行水し、自分が行水する時は30分間だけドアの前を通らないで欲しいと潜伏者たちに頼んで回った。
ペーターの父へルマンはリビングキッチンまでたらいを引きずって行く。
……自分の部屋なら、誰にも遠慮はいりませんから、そこまでお湯を運び上げる価値はあるというわけですというアンネのコメント。
オットーは社長室での行水が好み。
エーディトはキッチンだが、用心のために防火用の囲いの中で。
アンネはなかなかいい場所が見付からない。
最初のうちはカーテンを引いた2階の正面側の事務室をバスルームとして気に入っていた。
土曜の午後にはカーテンがひかれているので、アンネとマルゴーの2人共薄暗がりの中で行水をします。どちらか一方は、順番を待ちながら、カーテンの隙間から外をのぞいていて、通る人達が見られているのも知らず、色々と妙な事をするのを、目を丸くしながらながめていますとアンネは書いている。(2階の主事務室をバスルームとして使ってるのをほかの潜伏者たちは知っているのでしょうか?支援者達は知っているのでしょうか?いくら土曜日でカーテンが引かれているからといって入室禁止の所に入っていたら密告されますよ!)
だがすぐアンネは、お湯をそんな遠くまで運んでたらいにあけてもらうのが面倒になる。
そこで彼女は事務所の大きなトイレに移る。
事務所の隣のキッチンは湯沸かし器が備わっている。
アンネは便器に腰掛け、足をたらいの中に入れて体を洗った。
アンネは将来便器で行水するはめになるとは思わず、そのうちトイレに住む事になり、小さな本棚と小さなテーブルをこしらえてもらって、便器を椅子代わりにする事になるでしょう……とユーモアたっぷりに書いていた。
夜の10時にベッドに入る。
ほかのユダヤ人達で潜伏出来たのは人数差は随分あるが、2〜3万人だと言われている。
もっとも、フランク家のような潜伏方法は例外的だった。
ほかのユダヤ人達は親子が離れ離れになり、抵抗組織の庇護のもと、子供は安全な農家に身を隠してもらい、ユダヤ人らしからぬ名前を覚えさせられる。
夫婦が離れ離れになる事もあった。
だから、フランク家のような例はごく稀であった。
誕生日プレゼントのようなものを持って来てくれるのもごく少数だった。
多くのユダヤ人は見ず知らずの人達を頼るしかなかった。
当初は助けるそぶりをしていたが、急に怖くなって潜伏者と手を切ろうとする者もいた。
ドイツはユダヤ人を助けたらどうなるか分かっているのかと脅した。
ユダヤ人を助けて逮捕、移送された人達は、大半は2〜4ヶ月の拘留の後、アーメルスフォールト(オランダ国内)などの強制収容所(アウシュビッツじゃないんですね。)などに入れられたが、そんなことは誰一人知る由も無かった。
中にはユダヤ人を助けることを金儲けにしてユダヤ人に一宿一飯を提供する代わりにホテルより高い金額を請求する者もいた。
お金や貴金属の持ち合わせが無いユダヤ人は借用書を書くか、ほかをあたるしかなかった。
子供との別れは非常に辛いが、その方が一軒の隠れ家が見付かっても、もう一方は安全だとか、1箇所に少人数で隠れていた方が不注意が原因で音を立てたりして見付かる可能性が低くなるからだ。
それだけではない、人数が多ければ多いほど食糧の調達が難しくなる。
もちろん、潜伏者達は公式の配給切符をもらえないから、食糧はもらえない。
食糧の問題はヤン・ヒースが解決してくれた。
同志、ヤンはJの字が小さく入った身分証明書を多数掲示する事によって自分がどんなに多くのユダヤ人の面倒を見ているのかを証明していたのだ。
食糧の調達は抵抗組織が協力してくれた。
アンネはミープをまるで使い走りをしているラバのように荷物を運んでくれると感謝している。
もし、誰かが食糧を大量に事務所に運んでいる事を感付かれたらどうしようか?
その時は社員の分だと言おう。
ミープはどの店で買えば危険でないかを知っていた。
ヘルマン・ファン・ペルスが潜伏直前にある親しい肉屋に約束をしていたのである。
ミープがやって来て買い物リストを渡したら、当然のように品物を包んでやってくれと。
ミープが新鮮な野菜や果物を手に入れていた八百屋も。
余った野菜や果物をミープ用に取って置いてくれたのだ。
しかも、重いジャガイモ袋は、昼の1時15分前から2時15分前の間にプリンセン運河通りまで配達してくれた。
ミープはそれを棚に隠し、ペーター・ファン・ペルスが晩に上まで運んだ。
牛乳を後ろの家に運ぶのはベップの役目だった。
オランダでは当たり前の事だったが、まず毎朝牛乳屋さんが注文量を事務所の玄関に運んでくれる。
ベップはお昼時、倉庫係に捕まらないように運んだ。
それから、パンを後ろの家に調達するのはクレイマンだった。
パン屋のチェーン店を経営している友人が7人が食べるのに十分な量の焼きたてのパンを定期的に事務所に運んでくれた。
もちろん公式の量のパンよりも量が多かったが、その分の代金は戦争が終わったら払うと約束した。
アンネは潜伏してから3ヵ月後に8kg近く体重が増えたが、丸ぽちゃにはならなかった。
身長が伸びたからである。
オランダを占領していたドイツは1942年クリスマス時期に、食糧配給切符を持っている人全員に本物のバター(今まで人造バター、マーガリンだったんですか?ていうか、クリスマスプレゼントが本物のバターって・・・。)を特配したが、次の年の春にはもう食糧不足になっていた。
1943年4月27日火曜日、食糧事情も逼迫しています。朝食は、干からびたパンと、代用コーヒーだけ。夕食にはホウレンソウかレタス、それが二週間もつづいています。ジャガイモは長さが二十センチもあって、甘ったるい、腐ったような味がします。ダイエットをご希望のかたは、どなたもわが≪隠れ家≫にどうぞ!とアンネはユーモアたっぷりに書いていた。(長さが20センチのジャガイモって見た事が無い…。)
1944年3月14日火曜日、キャベツ――それもおそらく二、三年もたった古いのって、ものすごい悪臭を発します。いま部屋じゅうに立ちこめているのは、トイレのにおいと、傷んだプラムと、強い防臭剤と、腐った卵十個分のミックス。おえっ! こんなどぶどろみたいなしろものを食べることを考えると、それだけで胸が悪くなってきますとアンネは書いていた。
配給が少ない時や全く無い時は缶詰やヘルマンが闇で手に入れた肉から作ったソーセージで過ごした。
ミープは潜伏者達にビタミン不足なのは自由に生活をしている人達も一緒だと慰めた。
エーディトは潜伏前はアンネにバターをたっぷりと塗ったパンをおやつとして与えていたが、(おやつはバターをたっぷりと塗ったパンだけみたいです。)アンネの虚弱体質を気遣ってブドウ糖、肝油、カルシウム、酵母を与えていたが、アンネの身長は10センチ程伸びた。(う…うらやましい…。でも、その後の事を考えると、うらやましくないですが…。)
アンネは隠れ家生活にすぐ慣れ、1942年7月当初はエキサイトして、すごく変わった貸し別荘みたいだと書いていたが、悲しみに気が付くのもすぐだった。
アンネは日記を手紙形式で9月末頃から書き始めた。
アンネは9才の時にアーヘンのおばあちゃん(エーディトの母)から万年筆をもらった。
以来、彼女の細くて骨ばった指にインクのしみが付いていない事は、めったに無かった。
灰青色のインクを使い、丸っこい活字体で、後にこの活字体は、均整の取れた躍動的な書体とは対照的に、まだ子供っぽい感じである。
それ以降の彼女は、日記を連日のように手にし、万年筆を彼女特有の持ち方で、つまり人差し指と中指の間に挟んで、イエッチェ、エミー、ポップ、マリヤン、ピーン、コニー、キティー宛に書く事になる。
いずれも想像上の友達であり、隠れ家の生活を説明していた。
手紙の宛先になった名前は、全員女の子で男の子宛は1通も無く、アンネの思い付きではなく、シシー・ファン・マルクスルェルト作のヨープ・テル・ヘールシリーズの登場人物の名前であった。
アンネが日記による文通を思い付いたのは、ヨープの影響なのだ。
だが、この本にアンネと一緒に感激していたジャック(ジャクリーヌ・ファン・マールセン)がこのつながりに気が付いたのは、何年も後の事だった。
ジャックはなぜ自分の事をジャックではなく、ヨーピーと呼ぶようになったかがピンと来た。
ちなみにジャックだけ、手紙の中で登場する実在の人物だった。
アンネはこれはかねてからのお別れの手紙ですと1942年9月25日付けの手紙に書いている。
アンネとの親密な関係は9ヶ月続いたが、全く問題が無かったというわけでは無かった。
嫉妬や対立もあった。
アンネがイニシアチブを取っていた事は事実だったが、心のそこでは打ち解けない感じのジャックに自分を引っ張って欲しいと必死に思っていた。
上述の手紙の同日1942年9月25日にはジャックに2通目の手紙を書いていた。
あなたの事はしょっちゅう思い出しますとアンネはそう書いて、友達の運命をひどく心配していた。
何ヶ月か経って、ジャックの一家が移送されずに救われた事をアンネはミープから聞く事になる。
ジャックの母親(カトリック教徒)が骨董商をやっている夫が私の反対を無視して、子供達をユダヤ教徒信徒団体に入れてしまったという作り話を、当直の役人を通じて保安警察に信じ込ませたのが発端だった。
長期間のいらつくような文書のやり取りの後、ジャックと姉がナチスの移送リストから削除されただけでなく、ジャックの父の名も抹消された。
父の不妊手術を証拠立てる偽造の診断証明書をまんまと入手したのだった。
宗教の異なる者同士が結婚している場合はこうした証明書がユダヤ人を守ったのである。
ジャックはユダヤ人の星印を外し、ユダヤ人中学校から2年前に入学する予定だったもののユダヤ人ゆえ許されなかった女子中学校に転校した。
ジャックは安全になったが、根無し草だった。(殺されるよりははるかにましです。)
色んな世界を行ったり来たり。
午前中はアーリア人の生徒達と勉強し、彼らがいかににユダヤ人の苦悩を知らないか、あるいは彼らが少なくとも、ジャックの感じでは不安というよりはどっちでもいいという感じであった。
ジャックは彼らがユダヤ人の事をめったに話さない事を知った。
午後になると彼女は卓球クラブのリース、サンネ、イルセとか以前のユダヤ人中学校のナネッテ・ブリッツ(愛称ナニー)に会った。(皆はジャックがナチスの移送リストから削除された事を知っていたのでしょうか?知っていたらジャックの事をどう思っていたのでしょうか?)
ナニーはアンネと似ている所が多く、だからアンネとあまり仲が良くなかった。
ナニーの事をおしゃべりな子で人に何か頼む時は決まって相手の髪に触れたり、服のボタンをいじったりしますとアンネは潜伏前の日記に記している。
ジャックはアンネが消えた後でナニーと付き合うようになった。
だが、砂上の楼閣のような友情。
月を経るにしたがって、ジャックはユダヤ人のとの付き合いが狭くなってゆく。
1人、また1人と捕まって連行されて行ったのだ。
ジャックはなす術も無く、見つめているしかなかった。
最初に1943年1月にイルセが、次いで1943年6月20日の大規模な検束の時にリースとサンネが、しまいには9月にナニーが。
ユダヤ教の新年祭ロシュ・ハシャナの直前に当たる1943年9月29日には、アムステルダムで最後の大規模な検束が実施された。(ユダヤ教の新年祭ロシュ・ハシャナの直前に検束をやるとは・・・。夏の始まる直前にもプールとかの使用も禁止ししたりとか、ユダヤ人評議会に特別な会合を開くと招集をかけたのは安息日の直後だし、ナチスはやる事が違いますね。)
その時の検束にはユダヤ人評議会の長老と幹部も含まれていたのでこれで同評議会は事実上解散となった。
その時の検束で2千人のユダヤ人が捕らえられ、ヴェステルボルク収容所に移送された。
もちろん、アンネはそのような事は知らずに、1942年9月25日付の2通目の手紙をじゃあまたね。そしてあなたにキスを アンネよりと結んでいる。
アンネは手紙の宛名をキティーだけにするようになった。
キティーの姓がフランケンで、アンネの姓のフランクに似ていたから親近感がわいたからかもしれない。
宛名がキティーだけになったのは、それは今となってはもう分からない。
アンネの格子柄の日記帳の最後の記入が1942年12月5日、しかも最終ページまでびっしり書かれていたが、残存している次の記録の日付が1943年12月22日になっていたからだ。
アンネの日記での文通をこんなに長く中断するはずが無い。
アンネは実は1942年10月末の時点でもう頭を痛めていた。
そのうちいつか、ベップに頼んで、ペレイの店(格子柄の日記帳が売っていたお店と同じ店でしょうか?)でまだ日記帳を売ってるかどうか、見て来てもらおうと思います。…・・・代わりが見付からないと、雑記帳を使わなきゃなりません……この日記帳がどんどん残り少なくなって……と書いていた。
数日後、オットーはクレイマンに2冊目の日記帳を買って来るように頼んだが、クレイマンが買ってきてくれた日記帳は行方不明になってしまい、その後の来る日記帳が現在保存されている。
1943年12月22日からアンネは罫線の引かれた紙の、厚い黒い帳面の日記帳に日記を書き始めた。
彼女自身が記しているように、その前にちょっと間が空いたが、ひどい流感と熱、喉の痛みで寝たきりだったためである。
手まめなアンネはこの日記帳を1944年4月17日に埋めてしまっていた。
次の最後の日記帳のノートにはマルゴーからプレゼントされたと書かれていた。
2冊目、あるいはもっとあったかもしれない日記帳は今に至るまで行方不明だが1942年12月〜1943年12月の1年間に後ろの家で何があったかは分かっている。
アンネは自分の書いた日記を推敲していた。
在ロンドンのオランダ亡命政権で教育芸術科学相を務めていたヘリット・ボルケステインが1944年ラジオ・オラニーチェで戦争に関する文章を残して公開しようではないかと言ったので、アンネも自分の日記を公開したいと思ったからだ。
アンネはボルケステインの放送のあった日に仮のこの隠れ家での物語を発表出来るような事になれば、どんなに面白いか、まあ考えてみて下さい。題だけ見たら読者は探偵小説かと思うかもと書いていた。
アンネは、コンマの打ち方といった文法作法はの細則は気にしていなかった。
アンネは日記のほかに物語集を書いていて、それを記入した紙は支援者の1人が持ち込んだ大きな会計簿だった。
アンネは日記の方はほかの人には断じて読ませなかったが、物語集の方は喜んで聞かせたがった。
アンネは出来れば出版社に送って発表したかった。
アンネは少なくとも1作はクレイマンに新聞社に匿名で送ってくれと頼んだが、実現しなかった。
あまりにも危険だったからだ。
おそらく1944年5月であろう、アンネは依然日記を書きつつも、今までに書いた文章の書き直しに突入する。
それに使った紙は、ライトブルーと淡いバラ色の、半透明の複写紙で、とても薄いものだから、ちょっとでも気が散ると敗れてしまう。
当時、アンネは紙が貴重品だという事を分かっていて、ミープやベップが流用してくれるその用紙を宝物のように扱い、表と裏とびっしりと書き、それから慎重にファイルした。
アンネは日記の登場人物の名前を刊行の暁には本名と置き換えようとしたのか、変名リストを作った。
支援者のクレイマンとクーフレルはコープホイスとクラーレルになった。
ベップはエリーに、ミープとヤンの夫妻はアンネとヘンクになった。
ファン・ペルス一家はファン・ダーン家に、ヘルマンはハンスに、その妻アウグステはペトロネッラに、同家の息子ペーターはアルフレートに。
自分の一家についても新たな名前を考案していて、まず姓は当初アウリスが思い浮かんだが、その後、ロビンに決定。
エーディト・フランクはノラ・ロビンに、オットーはフレデリクに、マルゴーはベッティになった。
アンネだけはアンネそのまま。
だからアンネ・ロビン。
アンネは1944年5月〜7月末の間のいつの日か、当座は自分以外、誰にも日記を読まれないように気を付けようとばら色の用紙に記して、日記の書かれた用紙の一番上に置いた。
キティーとの対話はあまりにも個人色が濃厚で詳し過ぎると思ったのだろうか?
あるいは、そのメモは彼女がその後に自分の日記及び、友達と分かち合った秘密は他人には無関係の事柄であると記しているように、単に後ろの家の住人に対して、日記という個人的な世界に侵入しないで下さいと言いたいがための警告に過ぎなかったのだろうか?
推測は色々だが、父オットーは、1947年に隠れ家というタイトルでアンネの日記を出版した時、そうした推測を回避するために、この文章を故意に排除し、例のバラ色の用紙を自分の遺産にも入れなかったのである。
アンネは自分が成長したと思っていたがほかの人達から見ればアンネはまだまだ子供だった。
アンネは自分が子ども扱いされている事に不満を感じるようになり、特に母親に対して不満を抱くようになった。
そして、アンネが不満を感じている人間に歯科医のプフェファーが加わった。
プフェファーは当時53才。
オットーと同年生まれ。
後ろの家に住むようになったのは、1942年11月16日である。
ミープが自分のかかりつけの歯科医が隠れ家を必死の探しているので一緒に受け入れてくれと頼んだのだ。
もちろんフランク家は全然反対しなかった。(ミープ達に潜伏を支援してもらっていますからね。)
プフェファーならよく知っていたし、潜伏する前のフランク家にちょくちょく来ていた。
生まれはヘッセン州(ドイツ)のギーセン。
1938年11月のユダヤ人迫害の後、シャルロッテ・カレッタというキリスト教徒の女性(アンネの誕生日パーティーに来ていた女性ですか?違う人だったら、プフェファーは(ry。プフェファーは招待しなかったんですか?)と一緒にフランクフルトからアムステルダムまで逃げて来た。
ちなみにシャルロッテは最初の結婚で生まれた息子1人をドイツ在住のユダヤ人の夫の元に残して来ていた。(要は駆け落ちって事ですか?)
プフェファーとシャルロッテは何事にも積極的なカップルで、愛し合っていた。
旅行好きで社交好きだったが、1935年の人種差別法(いわゆるニュルンベルク法)でユダヤ人との共同生活がドイツで出来なくなった。
そこで2人はオランダで結婚しようとしたが、2人は今にもナチスに捕まりそうになっていた。(なぜ、オランダに来てからすぐに結婚しなかったのでしょうか?その時はシャルロッテの離婚が成立していなかったからでしょうか?すぐに結婚していたらジャックの父みたいに助かったかもしれません。)
プフェファーの寝室はアンネの部屋と同じ部屋になったので、マルゴーは両親と同じ寝室になった。
それはアンネが子ども扱いされていた証拠だった。
アンネはすぐにプフェファーと対立した。
プフェファーが後ろの家に到着してから2週間経つか経たないうちにアンネはプフェファーの事を旧弊で、規律一点張りで、マナーの事で長々とお説教をしますと書いている。
プフェファーのいびきもうるさかった。
プフェファーの変名は、アルベルト・デュッセル(ドイツ語で間抜け)になった。(間抜けと付けるのは分かりますが、なぜわざわざドイツ語にしたのでしょうか?ドイツを嫌っていたからでしょうか?)
アンネのプフェファー嫌いは、理解出来ない事も無い。
彼は昔風の男だったし、オットーと違って古い教育を受けたタイプで、人に打ち解けず、13才の女の子の考えている事など、全く理解に及ばなかった。
だが、アンネが書いていたようなそんな無愛想な人ではなかった。
彼女が受けた印象とは正反対に、感情豊かで魅力的な人物だったとすら思える。
プフェファーが隠れ家に隠れる時にシャルロッテに宛てた別れの手紙にその事をうかがい知る事が出来る。
「……あなたにこういう手紙を書く事は辛い、今までは何だって2人して毎日話す事が出来たのだから。だが書かねばならない。これほどあなたを、心から愛しているあなたを誇りに思っているのだから。私はいつも、このいいようもなく苦しい時代を乗り切っているあなたの果敢で静かな大きさを、あなたの高貴さを賛嘆して来た。私が誇りとするのは、あなたへの私の全幅の献身であり、自分自身をあなたの愛にふさわしい人間にしようとしている私の努力、行動である。
私たちの絆は永遠に断ち切られる事は無いのであるから、この、短くあって欲しい中断など何という事も無い! あなたはすばらしい勇気と信仰を保ってくれているように。あなたの愛は私を、そして私達2人を強くし、果敢にしてくれるだろう。その意味を込めてあなたを抱擁し、あなたに心よりのキスを あなたのフリッツ」
13才のアンネにフリッツの心情など推し量る事など出来ないのは当然であろう。(やはりまだまだ子供ですね。)
後ろの家の住人はたとえ互いにかりかりする事が多かったにせよ――家族が住まいの中にいたが、プフェファーには、そうした身近な人がいなかったのだ。
プフェファーは戦争勃発以来、息子ヴェルナーと全くコンタクトを取っていなかったのだ。
プフェファーは最初の妻との離婚以来、息子を1人で育て上げたが、1938年11月の児童移送の時、その子をロンドン在住の兄弟に預けていた。
そっちの方が当時12才位の息子にとって安全だったのだ。
しかし、実際は学生寮に入り、非常に不幸だった事をプフェファーが知っていたかどうかは分からない。(殺されるよりははるかにましです。)
アンネはいずれにせよ、プフェファーに息子がいる事すら知らなかった。
ミープに言わせればシャンソン歌手モーリス・シュヴァリエにそっくりだった歯科医に同情し、シャルロッテとのラブレターのやり取りを手伝った。
ただし、プフェファーの居場所を示唆するような文面は書けず、下手したら隠れ家の住人全員を危険に巻き込むかもしれなかった。
フランク家の4人からは、潜伏生活の全期間を通じて1行も郵便は外に出ていない。
スイスのバーゼルの一族(オットーの母、妹達)は、もちろん詳しい事は知らなかったが、それでもオットー達がどうなっているかはつかんでいた。
実はクレイマンが商売の情報交換に見せかけて暗号満載のハガキをオットーの義弟エーリヒ・エリアスと交換し合っていた。
エーリヒが回答を寄せたのでアンネはヘルベルトおじさんが、フランスからスイスに無事に移動出来た事を知り、従兄弟のベルントが芝居の夢を実現して、レッシングミンナ・フォン・バルンヘルムで宿屋の主人役を獲得した事を知っていた。
手紙は孤独なプフェファーを慰めたが、両家のいさかいの仲裁役をするはめになった。
両家はしまいには同じ屋根の下で暮らしているのにコミュニケーションは手紙になってしまった。(同じ屋根の下で暮らすと仲が悪くなるって事があるんですね。)
プフェファーはそんな事に嫌気が差し、トイレにこもるようになった。
プフェファーとアンネの共同の部屋の小テーブルをめぐって対立があった。
アンネは小テーブルを勉強と日記のために使いたく、プフェファーは戦争が終わったらシャルロッテと南米に移住するためのスペイン語の勉強のために使いたかった。
オットーの2人が小テーブルを使う時間表を作成するという提案により、この1件は解決した。
結局この2人が仲良くなる事は1度も無かった。
プフェファーは自分の事を尊敬してほしかった。
プフェファーのいう尊敬とは自分の言う事を黙って聞く事であった。
アンネはプフェファーにたてつくのでプフェファーはアンネのことを生意気だと思ったであろう。
マルゴーとアンネは戦争が終わったら学校に戻れるという希望から隠れ家で勉強を熱心にするようになった。
マルゴーは野心家だった。
オットーが2人に勉強をやる気にさせたのは負うところ大である。
オットーは常にリベラルな思考を持っていた。
オットーは勉強は無理してやるものではない、人に言われて覚えたものやテストのために頭に詰め込んで覚えたものはテストが終わったらすぐに忘れるという持論を持っていた。
オットーは分からない事があれば調べるようにと言った。
2人は教科書を隠れ家に持ち込んだ。
アンネはクレイマンに図書館から本を借りて来てもらい、クーフレルに毎週月曜日に発売される映画と演劇という雑誌を毎週欠かさず買って来てもらった。
それはほかの家族からしてみればミーハー的でぜいたくな事だった。
マルゴーはユダヤ人の迫害を受けた印象が誘因だが、パレスチナに移住して助産婦をやりたいと思っていたが、次第に化学などの自然科学に興味を持つようになった。
マルゴーは速記の通信教育を受け、ベップが自分の名前で通信教育の本部に送った。
マルゴーの成績はやはり良かった。
アンネは理数系が苦手だったが、父はアンネを甘やかさず、代数の勉強をしないと日記を取り上げると軽いプレッシャーをかけた。
アンネは歴史に興味があった。
アンネは読んだ本の読書カードを作った。
アンネは潜伏する数週間前にもデイジー山の休日という本を読み、感激していた。
クレイマンはアンネに少年少女鑑を持って来てくれたが、これはアンデルセン、ジャック・ロンドン、ジュール・ヴェルヌといった有名小説、それを一冊まとめた本だった。
オットーはアンネにマーガレット・ミッチェル作の風と共に去りぬの遠出を何度も許したが、彼女が自分の指導のもとでゲーテやシラーに取り組んでくれた事が嬉しかった
オットーは彼女と一緒にシラーの詩を、ヴィヘルム・テル、オルレアンの処女、マリー・シュトゥアルトを読んだ事があった。
また、何か秘めた思惑があったわけではなかろうが、レッシング作の賢者ナータンを読んだ事もあった。
ユダヤ人ナータンがユダヤ人迫害の夜に妻と7人の子供を殺されるが、その後でキリスト教徒の女の子を養育するという話である。
1944年7月にアンネはキティー宛に現代の若い女性をいかに考えるかという本の事を書いているが、その手紙は事情に詳しいうえに、成熟した内容となっている。
著者のヘレーネ・ハルシュカは、今時の若い者には何ら良い事が出来ないという見方をしている。(今時の若い者はと言っている人は若い時に今時の若い者はと言われている件。)
アンネにとっては、この本を読んだ事が感動的な反論を書くきっかけとなった。
オットーは潜伏中にチャールズ・ディグンスに慰めを見出し、その作品を原語で読んでいた。
英語力を鍛える事もあったが、ディグンスの社会的に阻害された集団に関心を抱き、弱者を理解し、正義感を打ち出しているてんであり、それが、当時重責を担っていたオットーを励ました事である。
エーディトはアンネの日記には探偵小説以外は何でも読むと書かれていた。
エーディトがスピノザの精神論という本を隠れ家に持ち込んでいた事は確かである。(スピノザはこのアンネに似ています。)
エーディトは精神的に参ってしまい、ドイツ軍はすぐに敗れ、一家を救ってくれるという希望が薄らいでいった。
だが、性格的に打ち解けない彼女は、自分の苦悶を心の奥にしまっていたらしい。
ヒステリックに暴れて、心配の一部を他人に見せる事はエーディトの性に合っていなかった。
それに対し、ファン・ペルス家のアウグステは首を吊るだの頭に弾丸を撃ち込むだのと騒ぎ、夫婦喧嘩の後は和解の儀式をした。
ママは何かというとマルゴーの味方をします。それは誰の目にも明らかです。いつだって2人してかばいあっているのですから。もうそれは慣れっこなので、ママがごちゃごちゃお説教しても、マルゴーがふくれていても、全然気になりません。もちろん2人の事は愛していますが、それは2人が私のお母さんであり、お姉さんであるからに過ぎず、1個の人間としては、2人共くたばれと言ってやりたい。という軽蔑的な言葉はアンネが1944年春にライトブルーの用紙に書いた文面であり、1942年11月17日のオリジナルテキストに手を入れたものだ。
アンネは子供の時分からマルゴーがいかに模範的かを耳にタコが出来る程言われた。
それに反し、アンネはよくお目玉を食らっていた。(アンネは両親にはきつく怒られてことはありませんが、ヘローと会った帰りが8時20分位になったので両親に本気で怒られたが、それは両親が本気で心配していたからだとアンネは理解した。)
人のいいマルゴーはアンネをいつもいつくしんでいた。
だが、アンネの気性がはっきりするにつれて、マルゴーは引き下がるようになった。
この2人が友人の輪から外されて後ろの家にこもった時に特に明瞭になったのは2人の共通点の無さである。
確かに1つの毛布の下に潜り込む事もあったし、1冊の本を一緒に読んだり、お互いを語り合ったり、クスクスと笑って現実の不安を飛ばそうとした事があったが、2人の心が本当に接近したのは、潜伏してから2度目の冬である。
アンネはマルゴーが話が好きではないと思っていたが、実はその反対だという事が分かった。
アンネはマルゴーから両親についての考えを引き出す事に成功した。
姉妹は以前よりもよく話すようになり、短い手紙をこっそり渡すようになった。
とはいえ、以前同様アンネが、両親が自分よりもマルゴーを愛しているのではないかと思う瞬間が何回かあった。
アンネは母の事になると、自分でも認めているように、日々の生活で、いわばたまたま見かける以上のことを全く知ろうとはしなかったが、父の前歴となると、その詳細にまで関心を寄せた。
父とアンネは実にオープンなふれあいをしていていて、愛とか性の話もタブーではなかった。
父がどの位詳しく自分の過去の恋愛についてアンネに語ったのかは、それは推測するしかないが、アンネは1943年12月24日付の日記に、不明瞭だがいささかの示唆をしていた。
結婚前の父に満たされぬ大恋愛があった、とアンネが思っていた事は、彼女の次の文章から容易に推測する事が出来る。
……自分の事は一切喋らない人ですし、おそらくマルゴーなどは、ピムがそういった色んな体験をしてきた事すら、全然気が付いていないと思います。かわいそうなピム。私にはピムがその女の人の事を忘れてしまったとは思えません。決して忘れないでしょう。
オットーはその後、……ピムがその女の人の事を忘れてしまったとは……を……ピムがその時の事を忘れてしまったとは……と書き換えた。
これはきっと善意でそうしたのであろう。
オットーの個人的な人間関係はアンネのドキュメントを理解するうえで重要ではないと主張しているし、妻への感情を疑問視されるような推測を避けたかったようだ。
オットーはアンネのその後のピムは、とても辛抱強い人になりました。その証拠に、やはりお母さんの欠点をちゃんと見極めていますものの、その証拠に以下を削除していた。
妻への悪い印象を持って欲しくなく、最初の日記の刊行時に妻を悪く書いている箇所を全部削除した。
オットーは36才で結婚したが、その間に当然何人かの女性に出会っていた。
オットーは第1次世界大戦中に妹のヘレーネ宛に軍事郵便で戦争中は恋愛よりも戦争の方が大事だという手紙を送った。
彼は1918年6月16日付(私と同じ誕生日です。)に未婚の男性は一人前じゃないと書いた。
オットーは第172測光班(光度によって狙撃位置を測定する係)の士官候補生になり、北フランスに駐留していた。
オットーは6月27日にヘレーネ宛に私が子供が生まれる時には若くありたいと願うものだと書いていたが、たとえ子供を望んだにしても、結婚に幻想を抱く事はほとんど無かったようだった。
それから7年後に彼はやっと4人兄弟の中で一番遅く結婚をした。
後の妻となった若き女性エーディト・ホーレンダーを紹介したのが誰なのか、そしてそれがいつなのかは誰も分かっていない。
アーヘンの裕福な家庭で育った当時25才のこの女性にオットーは本気で惚れ込んだのか、それとも頭で考えた健全なる結婚生活を実現するためだったのか、それも不明である。
だが、エーディトの方はオットーの事をオットーを本当に愛していたし、金持ちではないが魅力的なこの男性との結婚を従姉妹達からうらやましがられた事は確かである。
1925年4月4日、婚約が成立し、そのひと月後の5月12日、アーヘンのホテルグローサー・モナルフで結婚式が行われた。(マルゴーが生まれたのが翌年の2月16日なので出来ちゃった結婚なんて事は無いですよね。)
オットーの母のアリスはオットーが独身生活に別れを告げたので大喜びした。
オットーは戦後はエーディトとの間柄を一言も語る事は無く、普段は愛想のよかったオットーだったが、エーディトとの間柄を聞かれると途端に無愛想になった。
エーディトとの仲など後世の人にとって重要ではない、オットーはそう考えていた。
だが、アンネにとって両親の間柄はすごく重要だった。
そうでなければ、あれほど詳しく考えるはずが無い。
1944年2月8日(火曜日)、アンネはとうとう、両親との結婚生活について自分の考えを書き留める。
そのきっかけとなったのは家庭内のちょっとした悶着だった。
マルゴーの毛布が破れてエーディトが直したのだが、その時に針が残っていてマルゴーの身体にチクリと刺さった。
オットーはそれを口出しして、明らかに妻に責任があると子供を叱る時のように妻のだらしなさを注意した。
その時、アンネは不快に思い、母についての考えを日記帳に初めて記す。
アンネはその3ヵ月後、日記を書き直し、針事件の事を削除した代わりに両親の事を書いた。
まだ15才にもなっていない少女がそのような事をかけるのは、ごく稀な事だ。
その74行は慎重かつ鋭敏に書かれていた。
両親の結婚生活はいつも、理想的な結婚生活だと聞かされてきたが――けんかも無く、意見の衝突もなし――私にはとうに昔から、父が母と結婚したのは頭で考えた結果に過ぎないという事は分かっていた。たしかに父は母を、徹頭徹尾受け身の女性で自分の味方だと思ってはいたが、父は母に恋をしていなかった。若い女性が夢見るような情熱的な恋はそこには無かった。一層悲劇的なことに母は父の事をひとかたならず愛していた。アンネは、父が母を高く評価し、尊敬していた事、だが父は真の愛情とは無縁だった事を疑っていない。父は子供たちにキスするように母にキスをする。父は母とほとんどけんかをしないが、それは、不一致をアンネの観察によれば多数の不一致を取りつくろうために過ぎないとアンネは書いていた。
オットーは1945年の秋にこの74行の箇所を読み、この74行の存在を誰にも知られないようにした。
この事をごく親しい親族に話したかどうかは分からない。
オットーはライトブルーの薄紙に書かれたこの記述をアンネの最後の日記にあたる日付無しのバラ色の用紙と共に一緒に封筒に入れ、ほかの日記と分けて保管した。
オットーはその用紙全部に通しのページをふった。
バラ色の用紙にも、ライトブルーの用紙にも。
だが、1944年2月8日の用紙は別だった。
これにより、バラの用紙は誰が目を通しても、その人はオットーがページ数を当てにするので疑惑が浮かんでこない。
だた、これで全面解決したわけではなかった。
アンネはこの記述を別の帳面に書いていた。
このページを破り捨てるわけにはいかなかった。
そこでオットーは書き直したのテキストをベースに日記を刊行する事にした。
オットーはこの問題とは無関係にそうするつもりでいた。
別の帳面に書いたテキストを削除ないし、書き直したのだ。
アンネは3ヵ月後に自分の考えがもう正しくないと記述しているので、アンネの考えが変わったと容易に主張出来るのだ。
、
オランダ国立戦時資料研究所(在アムステルダム。オリジナルのアンネの日記を遺贈された機関。)がオットーの死後、アンネの帳面に残したテキストと書き直したテキスト、並びにオットーが発行した1947年版を並置した日記全文の研究・研究版をもし発行しなかったならば、後世の人々はその欠陥部分に関心を抱かなかっただろう。
帳面に残したテキストの編者は完璧を期するために、1944年2月8日の日記に脚注を付け、フランク家の要請により、47行(!)の記述を削除しているが、これは両親の結婚生活に関して手厳しい正当でない記述だからだと指摘した。
同研究所は書き直したテキストの存在を知らなかった。
なぜなら、オットーはこのテキストをすでに1980年春に――死ぬ半年程前に――ある友人に渡していたからである。
なぜそういうことになったのか?
ドイツ連邦犯罪捜査局(BKA。在ヴィーズバーデン。)は1980年春、過激なネオナチのアンネの日記が偽造だという口を封じるために、ハンブルク地方裁判所の以来を受けて日記の信憑性を調査した。
オットーはその作業を支援するため、彼が持っていたアンネの日記を全部提出する事になった。
オットーは1944年2月8日付の書き直したのテキストを絶対に渡したくなかった。
オットーは顧問の友人のコル・スアイクにこのテキストを渡し、調査が終わっても返却しないでくれと頼んだ。
オットーはドイツ連邦犯罪捜査局に対し、そして、アンネが書いた文章はこれ以外自分は全く所持していない、これは真実であると言った。
1980年代半ば、オランダ国立戦時資料研究は1944年2月8日付アンネの帳面に残したテキストを公表しようとした時、今度はオットーの遺族、つまり2人目の妻のエルフリーデとベルント・エリアス(オットーの甥)が邪魔に入った。
両親に対するアンネの批判は手厳しいだけではなく、正当ではない、これはアンネは3ヵ月後に理解した。
また、その日付の書き直したのテキストが存在しないのはそのためだと。
当時のエルフリーデとベルント・エリアスにしてみればまさに正当な論理だった。
この書き直したテキストの存在が通知されて、公表を迫られた時、アンネ・フランク財団はこれを断った。
これは不思議な事である。
なぜならアンネ・フランク財団は正しいアンネ像を伝える事を旨としているからだ。
オットーはコル・スアイクに自分とエルフリーデがこの事について関与出来なくなったら書き直したテキストを公表してよろしいと言った。
これはエーディトとアンネに不正を働いた事にはならないのであろうか?(ネオナチを付け上らせる事になったならないのであろうか?)
この母娘関係は、間違いなく発展し、深みを増し始めていたのだ。
アンネの見方は間違っていたのだろうか?
それとも正しかったのだろうか?
いずれにせよ、オットーは良き夫である事は間違いなかった。
妻を尊敬し、母と社員に甘やかされていたにもかかわらず、エーディトが病気の時にも食事を寝室まで運び、浮気もしなかった。
オットーは第1次世界大戦の時、ほかの兄弟が帰って来てから2週間経ってから帰って来た。
その理由は1918年1月初頭、オットーは西部戦線に向かう途中にボンメルン地方(旧ドイツ領で現在はポーランドとドイツに分かれている。)のある農家から、馬2頭を徴収し、義務感の強い予備将校オットーはその農家に馬を返しに行った。
その農家は馬を2頭しか持っていなかったので馬を返すのが約束だと思っていた。
その農家は目を疑った。
オットーは母宛に帰宅が遅れるという旨の手紙を送ったが、それは戦後の混乱ゆえどこかに止まってしまった。
母アリスは戦時中ずっと節約を重ねて本物のコーヒーを沸かして待っていたが、オットーが遅れた理由を説明すると、母親は怒りが爆発して自制心を失い、ふちまでコーヒーの入ったポットを部屋の隅まで投げ付けた。
だが、この1件はオットーが約束を守る男、信頼おける男と認められるようになった。
オットーはアンネに自分の大恋愛について話したのであろうか?
オットーはエーディトと知り合った時、物静かな彼女に自分の心が傷付いている旨を告白したのだろうか?
オットーは1920年代初めにフランクフルト出身のある女性(その人はユダヤ人だったのでしょうか?その人はどうなったのでしょうか?)と恋愛関係にあり、オットーはその人と結婚まで考えていたが、その女性が富裕層の娘で、両親がオットーの実家の銀行が傾いていたので両親が結婚を反対した。
オットーは社員のミープに1937年あるいは1938年にその事を話した。
オットーが非常に打ちひしがれたように話すので、ミープはオットーに同情し、1943年12月にアンネも同情してかわいそうなピム。……わたしもピムのようになりたいと書いた。
1944年1月6日の記述にアンネは夢の中にペーテル・スヒフが出て来た事を書いた。
その夢の中でペーテルのほおが自分のほおにふれるのを感じた。
その後、彼女は自分の激しい感情に答えてくれる人が現れてくれないものかと煩悶し、その願望を抑えきれなくなる。
アンネは私は心のそこからペーテルを愛していますと書いていた。
その日のうちにアンネは従来なかったほど足繁く1階上のペーター・ファン・ペルスの小部屋に通うようになった。
アンネの前に、夢の中へと追いやられた学校時代のペーテルと並んで、現実にもう1人のペーターが現れたのだ。(ペーテルもペーターも同じつづりで、ペーテルはオランダ語風、ペーターはドイツ語風。2人共ドイツ出身なのでドイツにいたときはペーター、オランダに来てからはペーテルになる。)
アンネはそれまで1年半ペーターと一緒に過ごして来たが、あまりいい印象がなく、恐ろしく怒りっぽくて、弱虫、ちょっぴりぐずではにかみ屋と書いていた。
3才年上の彼が好意を持ってアンネに接近しようとしても――ちょっとほおをなでたり、何気なくユーモアを言ったりしても、アンネは面白くもなかった。
アンネが勉強と読書に熱中しているのに対し、ペーターは工作と修理にかかりっきりになっていた。
アンネはその方面には興味が無かった。
ペーターは知性は程ほどだったであろうが、その代わり人はよく、学習意欲があった。
ペーターはマルゴーとアンネが享受していた特権を受けていなかった。
ファン・ペルス家の両親は子供の成長のためにお金をつぎ込むタイプでは無く、ペーターに水泳を習わせるといった事すらしなかった。
オットーはペーターに学習意欲を引き出させ、英語、フランス語、速記への関心を呼び起こした。
フランク家では問題が起こると静かに会話して解決していたが、ファン・ペルス家はへルマンは無鉄砲、アウグステ(愛称グスティ)は支配欲の強い気分屋、なまめかしいそぶりをする――すぐに頭に来る夫婦だった。
ペーターの事でカチンと来ると、ペーターを屋根裏部屋に追い払ったり、教育問題にいかに未熟だった証拠に彼を殴ったりした。
フランク家はファン・ペルス家から次第に離れて行った。
ファン・ペルス家もフランク夫妻の巧みな言動に付き合いにくいと考えていたかもしれない。
ペーターは両親の後ろ盾が無いので強い劣等感を抱く結果となり、すぐに怒ったり、赤面したり、口がうまくまわらなかったりした。
だが、アンネはペーターを馬鹿にせず、ペーターに魅力を感じるようになった。
それ以降、アンネはペーターに近付くようになった。
ひそかな熱愛。
だが、ペーターの方は何も気が付かないものだからアンネは満足出来なくなる。
アンネは自分が愛するだけではなく、愛されるようにもなりたかった。
1944年4月半ば、アンネはペーターとキスをしたと書き、同年代の子が体験したことの無いようなことを体験したと書いた。
アンネの両親は深い関係にならないかと心配していた。
父オットーが侮辱的にいった言葉を使えば愛撫(クヌーチエライ)に至らないかを両親は恐れたのだ。
だが、結局熱愛には至らなかった。
アンネの道徳心がそうさせたのかもしれない。
アンネは隠れ家に入る前は常に見栄っ張りで外見を気にしていた。
だが、隠れ家に持ち込めた服はごくわずかで、それらが擦り切れたのできれいな服を持つ事を諦められるようになり、ミープやベップがお払い箱にした服をありがたくちょうだいするようになった。
代わりにアンネは髪をカールしたり、ちょっとした化粧をした。
指にマニュキアを塗ったり、鼻の下に漂白剤を塗ってひげを脱色したりした。
アンネは1944年1月末、次々に新しい髪形を作っていると書いた。
それは偶然であろうか?
ペーターに気に入ってもらうためであった。
アンネは1942年初頭に歯の矯正器具を付けていた。
あと1回病院に通えば矯正器具が取れたのだが、隠れ家に矯正器具は持ち込まなかった。
アンネはプフェファーの隣で眠る事になるとは思わなかったであろう。(プフェファーとは違う歯科医の所に通っていたのでしょうか?)
プフェファーなら歯の矯正装置を調整出来ただろうに。
潜伏者8人に絶えず付きまとっていたのは不安だった。
誕生日パーティーが催されれば、愛情あふれるちょっとしたプレゼントと数編の詩が贈られたし、ハヌカー祭や聖ニコラウスの祭日には支援者と一緒にお祝いをしたものだが、不安が一瞬去ったとしても、また不安が戻って来るという繰り返しであった。
隠れ家にいる時には不安が2種類あった。
1つは密告されないか、自分の不注意で見付かって生命が危険に脅かされないかという不安。(その割には事務所に誰もいなくなってから、隠れ家から出て来て事務所や倉庫に入っていますが。)
ラジオで潜伏者に大いに期待を持てるニュースを耳にする度、早く戦争が終わって欲しいと思うのだが、それは常に失望が終わり、不安が戻って来てしまう。
フランク家は隠れ家に潜伏するのは2、3週間、長くても2、3ヶ月だろうと計算していた。
アンネは連合軍の侵攻間近――合計すれば何十回にもなり、その度に日記に書いていた。
いつも待ちぼうけを食らわされた。
1944年6月6日午前中にミープが嬉しいニュースを持って来てくれた。
オーバーロード作戦、つまりとうとう米英軍がノルマンディー上陸作戦が始まったのだ。
潜伏者たちは涙を流して喜んで抱き合った。
だが、連合軍がオランダを解放するのは1年後だという話もあった。
もう1つはほとんど毎日潜伏者を極度の緊張状態に陥れていた不安。
自由の身の時も不安の種の1つには違いないが、経済的の心配。
次第に減ってゆく蓄えがゼロになったら何を食べるか?
どこから収入を得るのか?
フランク一家とファン・ペルス一家は財布が別で、オットーの方はオペクタ商会とヒース商会の所有者なのでささやかな収入があったのにひきかえ、ファン・ペルス家は1943年10月に切迫した財政難に陥った。
おまけにヘルマンがなけなしの100ギルダーを入れた財布を主屋の倉庫に行ってポケットから落としてしまったのだ。
翌朝、新任の倉庫主任ファン・マーレンが空になった財布を持って行き、クーフレルに誰の物かと聞き、それをぜひとも知りたがった。
ヘルマンはお金を失くしただけではなく、新任の倉庫係の疑惑を増幅させてしまった。
しかし、潜伏者達はその出来事を小さなものだと考えるようにした。
ヘルマンの妻アウグステは毛皮のコートを手放さざる得なくなり、結局、ミープが闇の買い手を見付けて売ったが、それでもチェーンスモーカーのヘルマンの煙草代は足りず、おまけに煙草の量が減れば減る程、彼は機嫌を損ねた。
フランク家の貯えも少なくなり、アンネも……とうとう我が家のお金も底を突きかけています。来月には、いったいどうやって生きて行ったらいいんでしょうとアンネは1944年6月始めに自問しているが、オットーは1971年にこう回顧している。
ミープとクレイマンが装飾品の一部を売ってくれた、クーフレルはハーブの売り上げの一部を帳簿をごまかして私達の生活必需品購入に充ててくれたと語っていた。
石鹸類、薬、……本、等々。
ここでいう私達とはフランク家だけではなく、ヘルマン家とプフェファーの事も指していたと推測される。
隠れ家にいる間は小さな傷や青あざ、たんこぶを作ったり、リウマチの発作や、熱、ムッシーののみに悩まされ、クレイマンが黄色いのみ取り粉を調達してくれたものの、効果が無かったりしたが誰も大きな病気はしなかった。
隠れ家にいる間はマルゴーの頑固な気管支炎に悩まされていた。
マルゴーの咳が響いて見つかるかもしれないと恐れていた。
アンネは隠れ家にいる間、丈夫な体質ではなかったので何度も風邪を引き、熱を出したりしていた。
だが、それよりも問題だったのはアンネが書き物や読書をしている間に頭痛がするというのでついに眼鏡を掛けなければならなくなり、ミープをお供に連れて眼科医に行こうという話しになったが、家族会議の結果、死神と戯れるようなものなので、今後は読書や速記の量を減らす事になった。
アンネのトラブルの原因はもう1つあった。
それは彼女の心身障害的な過剰反応である。
1943年11月の日記に入り口の呼び鈴が長くなったのでたちまち真っ青になり、急な腹痛と激しい動悸に襲われました。全てが強いおびえから来る症状ですと書いていた。
だがヒステリーではなかった。
彼女のおびえには、それ以外の理由があったのである。
空襲警報によるけたたましいサイレン音がアンネの調子を狂わせた。
また、おびえの原因は近所にもあった。
近所が火事になったらどうするのか?
そして、そのおびえは後ろの家にも侵入し、戸口の本棚にまでやって来た。
この隠れ家の事には詳しいが、隠れ家の事を知らされていない、という人は全員が危険だった。
アンネの日記に、配管工事屋さんが来なかったのでほっとしている、建物の様子を知り尽くしているので隠れ家の皆は音も立てられなかったと書いていた。
1943年初頭、プリンセン運河通り263番地の建物は売却された。
新しい家主は当然ながら建物の内部を知りたがった。
クーフレルは新しい家主をうまく案内し、連絡ドアの鍵についてはうっかり忘れてしまいましたと言い訳をしたとアンネの日記に書かれていた。
泥棒も危険な存在だった。
アンネが隠れ家にいる間、少なくとも3回は泥棒に遭っていた。
戦争から3年経ち、生活が苦しくなったので、オランダ全土で盗みが日常茶飯事になり、ハーブを盗み、それを売るのだ。
たいていは無邪気な男の子で肝試しをしていたのだ。
男の子は盗品と共に消えていった。
だが、それよりも厄介だったのは盗みに入られた家が警察に通報し、泥棒を捕まえようとする警官だった。
潜伏者が見付かったらどうなるのだろうか?
アンネの日記に……警官が回転本棚をガタガタいわせた時……私の生涯で最悪の瞬間でしたと書かれていた。
アンネは1942年秋、つまり潜伏から4ヶ月も経たない時点でオランダの捕らえられたユダヤ人達がナチスの言説通りドイツの収容所ではなく、本来難民収容所だったヴェステルボルク収容所を経由してポーランドに移送されていた事を知っていた。
しかも、労働可能な男性だけではなく、ユダヤ人全員が対象だった。
妊婦や老人、子供までも。
ミープがヴェステルボルクから逃げて来た男の人の話を聞かせてくれ、(逃げようと思えば逃げられたのですか?)そこでひどい扱いを受けたのですが、そこですらひどいのだからポーランドではどんな扱いを受けるのだろうという問いの答えは1944年春日記を書き直した時点で出ていた。
この人達は秘密警察(ゲシュタポ)からこれっぽっちも人間らしい扱いを受けず、家畜用のトラックに詰め込まれてドレンテにあるオランダの最大のユダヤ人収容所、ヴェステルボルクにおくられてゆきます。このヴェステルボルクというのは噂で聞くだけでも恐ろしいところです……。もっとへんぴな土地に送られたら一体どういうことになるのでしょう。私達の推測では殆どの人が虐殺されているといわれています。イギリスのラジオでは毒ガスで殺されていると言っています。あるいはそれが、一番手っ取り早い死に方かもしれませんと書かれていた。
アンネは知り合いや友達が毎週どんどん移送されている事を耳にしていた。
アムステルダム南部の河地区もユダヤ人がいなくなり、きれいになってしまった。
移送されないようにするには潜伏するしかないと彼女は知っていた。
ユダヤ人を警察に密告するオランダ人がいる事も知っていた。
アンネは……まるで昔の奴隷狩りのようです……と書いていた。
当初はユダヤ人1人の密告に対し0.75ギルダーがもらえたが、それが25ギルダーにはね上がった。
ナチスはユダヤ人の密告を奨励していたのだ。
だが、虐殺の話をラジオとか支援者からいくら聞いたところで、彼女にしてみれば、犠牲者何百万人という数字は理解出来ず、とても現実だとは思えなかったに違いない。
BBC放送は最も重要な情報源だった。
1943年5月にドイツ軍にラジオを供出する事を義務付けられた。
クーフレルは命令通りにフィリップス受信機を供出したが、代わりにクレイマンが小型のラジオを後ろの家にこっそり持ち込んだ。
そのラジオの存在はほかの支援者達も知らなかった。
ラジオの情報には中には疑わしいものもあったが、確認できたものもあった。
しかし、いつになっても全体像はつかめなかった。
アンネの日記に1944年3月末、ナチスの残虐行為についてそっけないがはっきりと書かれていた。
ハンガリーがドイツ軍に占領されたままで、ここには100万人のユダヤ人が残されているのでその人達はさぞかしひどい目に遭っているでしょうと。
ユダヤ人殲滅の先導者アドルフ・アイヒマンは2ヶ月間に50万人ものユダヤ人をアウシュビッツに送り込んだ。
そのほぼ全員がガス室で死んだ。
だが、アンネは救いの願望の方が強かった。
アンネは自分をオランダ人だと考え、戦争が終わったらオランダの市民権を得ようと考えて、もしもそのために女王様に直訴しなくちゃならなくても、目的を達するまでは決して諦めないでしょう!」と書いていた。
アンネはユダヤ人とドイツ人は不倶戴天の敵なんですと断固主張しているが、ここでいうドイツ人とはドイツ人とオーストリア人の事を指していた。
父オットーはアンネに偏見を持たないようにと忠告し、一家の友人、ゲルトルート・ナウマンやオットーの従姉妹のルクセンブルク逃亡を手助けしてくれた元秘書ミセス・シュナイダーのことを思い出すように、ミープやクーフレルはオーストリア出身だという事を肝に銘じるようにと諭した。(ユダヤ人に偏見を持っているドイツ人がいるように、アンネもドイツ人やオーストリア人に偏見を持っていたのですね。)
アンネは内心の葛藤にさいなまれていた。
両親同様、ドイツ語のラジオ放送を聞き、ドイツ語の本を読みながらも、一方では自分がドイツ出身だという事にあらがっていた。
アンネはドイツ人は野蛮な人間が怒鳴っている言語だと考えていた。
アンネはドイツ人ともドイツ語とも出来るだけ接触しないようにした。
いずれにせよ、クーフレルやミープとはオランダ語で話していた。
ミープは隠れ家が静かでうらやましいと言っていた。
8人に対して引き受けた責任は、支援者全員の肩に重くのしかかっていた。
周囲への不信感、プレッシャーからは1度たりとも離れた事はなかった。
1つの軽率な行動、1つのとんでもない言葉が8人を危険に陥れかねない事を分かっていたからだ。
支援者たちの心の内はどうだったか、それはあまりよく分かっていない。
彼らはヒーローになろうというつもりはなかった。
自分たちは当然の事をしているだけだと思っていたからである。
彼らは沈黙を覚えるようになった。
戦争、特に占領により、おしゃべりは禁物になった。(私は耐えられますけどね。ていうか、その方が楽ですけどね。)
支援者同士ですら必要不可欠な事意外は語らなくなった。
事務所をオットーから引き継いだクーフレルは自分の妻にすら後ろの家の出来事を語らなかった。
その秘密を共有する事は病気がちな夫人には耐えられなかったと考えたからであろう。
クーフレルの妻は戦後間もなくして亡くなった。
クレイマンは夫人と一緒にごく稀に後ろの家に入った事があったが、アンネと同じ年頃のコリーには陽気な父親役を演じた。
コリーに秘密を伝えれば負担になる。
クレイマンは重い胃病を患っていて、プレッシャーから胃病が重くなり、時には何週間も寝っぱなしになり、支援者の輪から脱落する事があった。
ヒース夫妻(ヤンとミープ)は互いに鼓舞していたが、ごく親しい親戚にも秘密を語る事は出来なかった。
ヒース夫妻は自宅にも1人の青年をかくまっていた。(この人もユダヤ人?)
その事はフランク一家もそのほかの人達も知らなかった。
隠れ家でよくアンネとひそひそ話をしていたベップ・フォスキュイルは、自分が昼間見聞きして来た事を父に話していた。
父親は長年倉庫係の主任をしていて支援者たちの護衛役をしていた。
彼自身は後ろの家と距離を取り、部下の倉庫係が勤務時間をきっちり守るように留意していた。
潜伏者達は彼の存在をありがたがった。
だが、1943年半ば、胃の手術を受けた。
潜伏者達は仕事に戻ってくれる事を願っていたが、それは叶わぬ夢だった。
医師達の診断は癌。(アンネの母方の祖母も癌でしたね…。この頃からすでに癌にかかる人が多いみたいですね。)
倉庫係が緊急に必要になり、結局ファン・マーレンを採用する事になる。
彼は精力的に働いたが、ほどなくしてクーフレルの信頼を失う事になる。
仕事だけをしてればいいものを、あたりを嗅ぎ回るようになり、後ろの家、彼の表現を借りれば秘密めいた雰囲気が彼の興味を呼び覚まし、倉庫の背後の長い建物で何が起こっているか、それを何としても知ろうとした。
クーフレルは主屋の後ろの窓ガラスに青いペンキを塗って見えなくさせたがファン・マーレンは好奇心を抱いて青いペンキを爪で剥がそうとしていた。
この成り行きはクーフレルが何年も経ってオットー宛にファン・マーレンがペンキで青いペンキを爪で剥がして、剥がした箇所を覗いて驚いた、あそこに建物があるなんてと言ったので、話をそらそうとしたが、ファ・マーレンはあくまでも食い下がったと書いていた。
あの上にはドア1枚がある。
後ろの家に通じるに入り口に相違いない…。(ドアは本棚で隠されていたので何でドアがあると知っているのでしょうか?それとも、後ろの家に通じるドアが1枚あるに違いないという事でしょうか?)
多少なりとも頭の働く人ならば、ミープが度々実験室へ行って来るとか、ベップが記録を調べに行くとか、クレイマンさんが商品貯蔵室を見て来るとか言い出すのに、クーフレルさんだけは(ミープとベップは呼び捨てですか。)、この建物の後ろの家は元来こちらの建物には属さず、隣の建物に付属すると主張している事実、これに目を付けないわけがありませんとアンネはファン・マーレンの偵察の事を日記に書いていた。(クーフレルの野郎少しは頭を働かせろよ!!!と言っているようにしか思えません。)
ファン・マーレンは夜中にも倉庫が使われていた事に気が付いていた。
彼は闇にうごめいている奴は、昼間後ろにいる奴に違いないと結論付けた。
彼は犯人を追う刑事よろしく、ちょっとした罠を倉庫に仕掛た。
クーフレルはとオットー宛ての手紙にこう書いていた。
彼はよく短い木の棒を、荷造りテーブルからちょっと出していた。向かい側の樽との間隔はあまり広くないので、間を通ろうとしたらきっと棒の位置が変化したでしょうと。(罠を仕掛けていたのを知っていたなら潜伏者達に知らせればいいのに。それとも、後になって分かったのでしょうか?)
ほかにもファン・マーレンは、足跡が残るようにと床に澱粉を撒いて置いたり、クーフレルによれば鉛筆を逆さまにしておいて、夜中に誰が触ったかどうか翌朝調べていた。
ファン・マーレンは証拠が見付かる度にクーフレルにその旨を告げていた。
社長は昨夜、倉庫に入りましたか?
ファン・マーレンはクーフレルの答えに満足しなかった。
ファン・マーレンは不愉快な質問をしつこく浴びせた。
そして、とうとう、以前この会社ではオットーさんが働いてたんじゃないですか?と聞いてきた。
ファン・マーレンはある日の朝、製粉室で財布が落ちているのを見つけた。(財布が落ちたのは主屋の倉庫ではなかったのですか?それとも、また財布を落としたのですか?それにしても、ヘルマンは財布を落とした事にすぐ気が付かなかったのでしょうか?)
これはヘルマンが十分度秤(測定物の10分の1の重りで釣り合う秤)で体重を量ろうとした時に、上着のポケットからするりと落ちた財布だった。
確証を得たと思った。
彼はなぜこの秘密にそれ程こだわったのか?
それは、彼自身が潜伏者を1人、かくまっていたからかもしれない。
ナチスに追われているユダヤ人ではなく、自分の息子だった。
息子はほかの大勢のオランダ青年同様、ドイツの労働ないし防衛の仕事の命令に従わないでいた。(労働の命令はユダヤ人だけに出ていたのでは無かったのですか。それにしても、ファン・マーレンの息子だけでなく、大勢のオランダ人が労働の命令に従わなかったって。オランダは潜伏者だらけですね…。)
ファン・マーレンはもちろん息子の安全に気を遣っていた。
もし、ファン・マーレンが支援者の1人として疑惑を持たれ、潜伏者達が逮捕されたら息子の安全は風前の灯になった。
あるいは、ファン・マーレンはほかの倉庫係の証言通り、ハーブを闇で売るためにハーブを盗むために探っていたのかもしれない。
後ろの家に誰かが生活しているのかと考えていたのはファン・マーレン1人ではなかった。
オットーが戦後になって知ったのだが、隣人の大半は、遅かれ早かれ、そう推測していた。
人の話し声(ファン・ペルス夫妻の声だろうな…。)を聞いたとか、トイレの流れる水の音を聞いた者もいて、暗闇の中に人影が通るのを見た者もいた。(夜中に隠れ家を出るから…。支援者達は注意しなくていいと言いましたが。)
しかし、潜伏者達の連帯感の方が強かった。
ファン・マーレンはほかにもおかしい事に気が付いた。
事務室には異常な量のパンと牛乳が配達され、ほかにも妙な事に目が付いた彼は、部下の倉庫係、ランメルト・ハルトホにその旨を告げた。(牛乳って毎朝配達されますが、倉庫係が来た後に配達されるのですか?パンは、いつ配達されていたのですか?倉庫係がいる間に配達されていたのですか?ミープ達は社員の分だと言ったと思いますが、ファン・マーレンは信用していなかったと思います。)
ランメルト・ハルトホは1944年春から違法労働者として働いていた。
彼もドイツの強制労働に従わなかったのである。
潜伏していたら生活出来ないので働いていた。(強制労働の対象の基準が分かりません。)
彼はドイツ人にかぎつけられないか、絶えず不安な気持ちで仕事をしていた。
ハルトホが妻のレナ(フルネームはレナ・ハルトホ・ファン・ブランデン)にユダヤ人があそこにいる、と話したのは確かである。
レナはクレイマンの兄とクレイマンが経営していたCIMEXという清掃会社に清掃婦として雇われていた。
クレイマンは1943年か44年にコストの関係から、同社の住所をプリンセン運河通り263番地に移していた。
同社には清掃主任のペトルス・へノットが働いていて、この人はレナに頼まれて、レナの夫のランメルトをクレイマンに紹介していた。
レナ自身はあちこちの建物の清掃をしていた。
へノットの自宅も清掃していたし、プリンセン運河通りの263番地の建物も清掃していた。
1944年7月のある日、レナはヘノットの妻アンナこう聞いた。
あなたもご存知ですか?
あそこのプリンセン運河通り263番地にユダヤ人が潜伏しているって事?
レナは夫と息子の事をひどく心配していたようだった。
当時23才の息子クラース、おそらくノンポリはドイツの労働に徴用され、ベルリン近郊にいた。(やはり強制収容所にいたのでしょうか?)
彼は後にドイツ海軍に志願した…。
だが、へノットの妻アンナはこうした話題は避けたかった。
どうしてそんな事が言えるの?
そんな事は、軽々しく言える時代ではないのに……。
その翌日、へノットはクレイマンにその会話の事をもう伝えていた。
1944年7月のある日、彼女はベップにも話し掛けていた。
ベップは彼女に掃除代を支払っていた。
この建物内にユダヤ人が潜伏しているって事は知ってるの?
もし潜伏者の存在が暴露されたら、それに感知している人間は全員命が危うくなる。
ベップはすぐさまクーフレルの所に相談しに行く。
レナの言っている事は警告として受け止めるべきでしょうか?
ベップは連合軍が前進している事、戦争がすぐにも終わる事を知っていた。
潜伏者達をすぐにでも後ろの家から去らせるべきでは?
マルゴーとアンネだけでも(ペーターは?)別な隠れ家に移すべき?(ほかに隠れ家があるのでしょうか?)
潜伏者8人のうち1人でも誰にも気付かれずに建物からこっそり出す事が出来るのか?
もう7月、外は夜10時まで明るい。(北欧の白夜みたいなものですか?オランダにも白夜はあるのですか?)
クーフレル達支援者は希望と絶望のせめぎあいに、悶えていた。
やっと本当に希望が湧いて来ました。ついに全てが好調に転じたという感じ。ええ、そう、ほんとに好調なんです!……ヒトラー暗殺が計画されました……アンネの日記には1944年7月21日(金曜日)に書いていた。
もしかすると10月には、また学校の机に向かっていられるかもしれない、そう思うと、あんまり嬉しくて、筋道だった思考が出来ないんです!
1944年8月4日の朝、ゲシュタポ第W局B4部(ユダヤ人担当課)のアムステルダム外局(在エーテルぺ通り)に電話が掛かった。
プリンセン運河通り263番地の後ろの家に何人かのユダヤ人が潜伏しているというオランダ人の声。
女性だったといわれている。
その証言は非常に詳細だったので、同局の高官は部下のSS上級分隊長ジルバーバウアーに、即刻赴くよう命じた。
ヴェステルボルクでの暮らしはアンネに安堵をもたらした。
2年1ヶ月もの間、胸を締め付けられるような、囚人のように過ごして来た彼女は、見知らぬ人々と語り合い、知り合いと再会した。
日差しを肌に浴び、外の空気を吸っていた。
アンネはこれからの現実の事を考えないようになっていた。
父、オットーの回想によるとアンネはくつろいだ感じだった。
束の間の自由。
最終的にはアウシュビッツへ送りなのだ。
逮捕後、潜伏者8人と支援者2人は、プリンセン運河通りから直接、アムステルダム南部のエーテルぺ通りにある、SDのアムステルダム本部に連行された。
そこは元学校だった建物。
まずは金品を取り上げられた。(貴重品はナチスに取り上げられなかったのですか?それとも隠し持ってたのでしょうか?)
男性達、すなわち、オットー、ヘルマン、クレイマン、クーフレル(プフェファーとペーターは?)は短い尋問を受け、最終的にか全員監房に入れられた。
だが、その後の何時間もの厳しい尋問は無意味だった。
SDの警官達はすぐに察知した。
この連中は2年1ヶ月もの間、潜伏していたのだから、ほかの潜伏者の事など知っているはずは無い。
しかも、時代は潜伏者を味方していた。
ユダヤ人を拷問している暇は無い。
7月31日、アメリカ軍はアヴランシュ(フランス西部の港町)をドイツの防衛ラインを突破し、フランス全土を解放しようと邁進していた。
ドイツ軍兵士ははゲシュタポのユダヤ人担当課もの役人も含め、オランダの防衛が第1だった。
捕らえられた10名は彼らにとって負担だった。
ユダヤ人8人は可及的速やかにヴェステルボルクに移送する事。
そしてクレイマンとクールレルは反体制派用の懲罰収容所のアーメルスフォールト(オランダ)に連行する事。
フランク一家とファン・ペルス一家、それにプフェファーは最初の一晩はSDアムステルダム本部で過ごし、続く3晩はヴェーテンリングスハンスの拘置所で過ごし、1944年8月8日朝にはヴェステルボルク行きの列車に乗った。
3等客車を見た物は、ナチスがユダヤ人を人間扱いしてくれていると思った。
そこには木製の座席(ベンチ状)が備わっていた。
捕まった大人達は支援者達を命の危険に陥れた事に対する厳しい自己批判と不安で頭がいっぱいだった。
ドイツ保安警察用語にいうところの難民ユダヤ人、あるいは懲罰用のユダヤ人は、ポーランドの強制収容所に送られる運命なのだろうか?
それに反し、アンネの頭には、しばし将来への不安は無かった。
彼女は列車の窓から1度も離れなかった。
オットーは彼女が自然に熱中していたのは隠れ家にあまりにも長くいて、外の世界に出られなかったかもしれないと回想していた。
アンネは、ヴェステルボルクまでの間中、窓を過ぎる光景、草地と畑、草をはむ牛と羊に目が釘付けだった。
夏の色彩に圧倒されていたのだ。
屋根裏部屋から見えたマロニエの樹以外の自然に出会えたのだ。
再びの果てしなく広い空。
それは後ろの家の天窓から見えた小さな切片ではなかった。
1944年8月8日の空は雲だらけだったとしても。
潜伏前のアンネは、殆ど自然に関心が無かった。
だが、ヴェステルボルクには、人が不安から解放されるような自然と呼べるようなものなど微塵も無かった。
そこは荒涼たる無人地帯であり、国土の北東端に位置しているものの、まるでオランダではなかった。
夏なのに、あたりはくすんだ灰色。
風が吹けば積み上がったが舞い上がる。
雨が降れば泥の中に沈む。
1942年7月以来本来ユダヤ避難民の中央収容所は有刺鉄線が張りめぐらされて警察通過収容所と改名された。
ドイツ人司令官が収容所の責任者になったがユダヤ人による自己管理、つまりアムステルダムのユダヤ人評議会に似た組織形態は依然続けられた。
以来、このゴーストタウンを通り抜けたユダヤ人の数は10万人。
ここには学校バラック、孤児院バラック、病院権養老院バラック、劇場権演芸バラック、それに収容所独自の通貨まであった。
ここには同時に最高1万6千人が過ごした。
あまりにも大勢が収容されていたので人間的・衛生的な生活は無理だった。
病院のベッド数は1800床だったが、常に満杯だった。
移送前にほんの2、3日しかいない人もいれば2、3週間の人もいた。
何ヶ月もいる人は少なかった。(収容所を自己管理している人達は別だと思いますが。)
だがいずれにせよ、彼らは別の場所に移送されて行った。
ごく少数の特権的な人達、ホースラル家のように、国際赤十字のいわゆるパレスチナ・リストや外国のパスポートを所持していた人達はベルゲン=ベルゼン交換収容所へと、また、ユダヤ人でもキリスト教に改宗した人などはテレジエンシュタット強制収容所へ送られたが、(キリスト教に改宗したのにアウシュビッツに送られてガス室で殺された人達もいます。)大半はポーランド送り、行き先はソビブルやアウシュビッツの絶滅収容所だった。
ヴェステルボルク収容所では移送列車を毎週出発させるように人数を調達するように命じられた。
出発は通常、火曜日だった。
列車の運行予定と目的地はアイヒマンを長とするユダヤ人担当課が決めていた。
人数も。
誰を移送するかは、ユダヤ人の収容所管理課自体が決める事になっていた。(要はユダヤ人がユダヤ人を収容所送りにしているようなものです。この人達は戦後処罰されたのでしょうか?)
その選択の際に役立ったのが綿密に記載された名簿だった。
出発前夜、該当者の名前が読み上げられた。
だが、あらゆる経験よりも願望の方が強いのが世の習いだから、収容者達は通常の日常生活を送ろうとし、大人達は懸命に働いた。
なくてはならならぬ人物になれ。そうすればここに留まれるかもしれぬ。
収容者達は従来の生活との絆を断ち切らぬよう試みた。
例えばサンネの父フランツ・レーデルマンは1943年7月に新聞購読の住所をアムステルダム・ゾイド地区からヴェステルボルクに移していた。(新聞の購読は許されていたのですね。)
彼は罫線入りの便箋に姉宛に、こう書いていた。
これが慰めなんだ。
その娘でサンネの姉のバルバラ(マルゴーの学友。金髪をカールしていた。)は、5千5百人以上の逮捕者が出た1943年6月20日のユダヤ人大迫害の前にタイミングよく自宅を出て、偽造パスポートを持参し、バルバラ・ヴァールツという名前でアムステルダム市内に潜伏していた。(写真を見る限りでは金髪には見えませんでしたが。染めたのかもしれませんが。)
父フランツは新聞に執着し、ヘブライ語を学び、ヴィオラを演奏していた。
昼間は豆の選り分けをするように命令されていた。
ヴェステルボルクでは、少年少女のグループが組織されていた。
毎週400名程が移送されていたが、それまでは授業が行われ、通知表が渡され、紛失しないように、次の収容所の先生に必ず渡す提出する事と……言われていた。(次なんてありませんけどね。)
アンネは服と靴を渡し、裸になり頭にシラミがいないかという侮蔑的な検査に耐えた。
肩に赤い当て布の付いた懲罰用の紺のつなぎを着せられ、裸足に木靴を押し込めた。
サイズが合っていれば良かったが、たいていは大きいか小さいかだった。
意図的に合わないサイズを用意していた事が多かった。
その苦痛が即拷問になったからだ。(だったら、サイズが合わない靴を収容者同士で交換すればいいのに。)
フランク家のような懲罰例の場合、宿舎は男女別々になり、1つのバラックに300名の女性が寝ていた。
プライバシーなど無かった。
家族が一緒にいることは許されなかったが、オットーは男性用のバラックにいて、夕方と晩に家族3人に会う事が出来、アンネはペーター・ファン・ペルスとも話しをした。
オットーは娘2人を炊事場に入れようとしたが、上手く行かなかった。
潜伏していたユダヤ人は、待遇改善など期待出来なかったからだ。
エーディトとマルゴーとアンネは電池の分解作業をやらされた。
ドイツ軍需産業用の強制労働。
まずは電池の外装を外し、のみや小さなドライバーで金属の電池の蓋を開け、中央にある小さな炭素棒をつまみ出し、塩化アンモニウムを含んだタール状の電解液をかき出し、各部分、別の箱に入れる。
汚れ作業で電池の電解液が手から顔に、髪に、つなぎにこびり付く。
健康に良くない作業で気化した電解液の塩化アンモニウムにはわずかな毒性があり、気管支炎を誘発するのだ。(マルゴーは気管支炎だというのに。)
女性達は咳をし続けたが、それでも力強く取り組んでいた。
なくてはならぬ人物になれ!
その言葉が耳に響いていた。
いくら作業が不快であろうと、彼女達はテーブルに並んで座り、陽気におしゃべりをしていた。
自分の悩みではない。
そんな話をしていたら相手も自分も危ない。
それにそんな話をしたところで何も変わるわけではない。
彼女達は生活上の楽しい事をぺちゃくちゃしゃべって気晴らしをし、笑っていた……
オランダにいる限り、全て順調だった。
ヴェステルボルクでアンネと一緒にいた人の証言によれば、その青白い顔と大きな目は自信があふれていた。
1度など、彼女は旧友キティーの母親の横に座った事があった。
キティーは運良く、収容所の使い走りをし、時にはミシンを踏んでいた。
母からアンネがこの収容所にいる事を聞いたキティーはぜひ会いたいと思っていたが、2人が会う事はついになかった。
アンネは病気になり、その後何日間か病院のバラックに入っていたからである。(病院のバラックにいるのを知っていれば、お見舞いに行けば良かったのに…。)
情報は公式には統制されていたが、何かニュースがあると収容所のバラックにたちまちのうちに広まった。
収容者達は噂に狂喜したり失望したりした。
1944年8月25日にパリが解放された!
1944年8月25日にアメリカ軍がパリを占拠したのはフランク一家がヴェステルボルクに来てから2週間半後の事だった。
ドイツの4年間に及ぶ占領の後解放されたのだ。
こうなれば連合軍はベルギーを目指して進軍し、次は南オランダを解放するであろう。
ちょっとの間気分が高揚しても、その後は皆、苛々した。
ドイツにもボヘミア(テレジエンシュタット強制収容所のある所?)にもポーランドへの移送はもうないという噂が出たが、ドイツの収容所送りが間近だという話が出た。
あるいは行き先はテレジエンシュタットだとかアウシュビッツだとか。
ヴェステルボルク駅構内には、何日か前から列車が停まっているがあれが発車する時が来るのか?
アンネは病身の12才の男の子を見舞っていた。
その子は正統派ユダヤ教徒の家の出身で一緒に収容されていたロザ・デ・ヴィンテル(エーディトの友人)によると、アンネはその子と神について語っていたという。
潜伏前の彼女は宗教の事には関心がなかったのに。
アンネはごくまれにシナゴーグに行った事があるだけだった。
父オットーも同様。
オットーの祖母コルネリア(オットーの母方の祖母)にしてからが、シナゴーグに入ったのは1度だけで自分の結婚式の時だけだった。
オットーもユダヤ教徒の成人式バルミツバーを受けなかったし、エーディトと違ってヘブライ語も学ばなかった。
贖罪の日(ヨム・キプール)にエーディトとマルゴーがシナゴーグに行っていた時にもオットーとアンネは家で留守番をしていた。
エーディトの祖父ベンヤミンは贖罪の日には座らずに礼拝をしていた。
隠れ家時代にエーディトはアンネに自分の信仰を教え込もうとしたが、成功しなかった。
今日は、祈祷書に書かれている事をいくらか読まなきゃなりません。なんでお母さんはこんなものを読めと押し付けてくるのか、さっぱり分かりません……とアンネは1942年10月3日付の日記で文句をいっていた。
どうしてママは、私に信仰を強制するんでしょう?これは1942年10月29日付の日記で彼女はむきになっていた。
エーディトとプフェファーが安息日の時に祈りを捧げていた時にアンネも一緒に加わっていたが、オットーの印象によれば興味を示してはいなかった。
アンネは潜伏生活1年以上経ってから、自己を見出し、結局、神に接近し始めた。
アンネはロンドンやパリでの暮らし、いわゆる同化した生活を夢見てはいても、こう主張していた。
私達は、決してただのオランダ国民にも、ただのイギリス国民にも、いえ、その限りではほかのどんな国民にもなれないでしょう。私達は常にユダヤ人なのです。私達は常にユダヤ人であるしかなく、またそれを望んでいるのです。
アンネは父と同様、ユダヤ教の規定通り、埋葬ではなく、死後、火葬を望んでいた。
……私の万年筆は、火葬に付された……。私もいずれは火葬にしてもらいと思っていますから!
間違って万年筆がストーブに入ってしまった後、彼女はそう記していた。
1943年には隠れ家で始めてのクリスマスを祝ったが、キリスト教徒のお祝いではなく、異教徒の慣わしとして。
それでも、彼女の、ユダヤ人たる確信は変わらなかった。
金曜日の夜、生まれて初めてクリスマスの贈り物をもらいました。
同じ1943年光の祭りであるハヌカー祭の時にオットーはアンネに新約聖書をプレゼントしたが、それでも彼女の心は動揺しなかった。
私にも何か新しいものを始めさせたいと考えたお父さんは、クレイマンに頼んで、子供向けの聖書を買ってきてもらいましたとアンネは書いていた。
アンネはペーターがユダヤ教の事を何一つ知らない事に失望したと書いていた。
オットーは終戦時から亡くなるまで、ユダヤ教の祈祷書と共にカトリックのアッシジのフランチェスコの祈祷書も携行していた。
キリスト教徒とユダヤ教徒は折り合いをつけるべきだと一生主張していた。
新約聖書を贈るのにハヌカー際には適していないとマルゴーは気が付いたので、オットーはその新約聖書を、聖ニコラウスの祭日のプレゼントとして贈った。
オットーは1979年のインタビューでこう答えていた。
私はリベラルに育てられたが、迫害の後、ユダヤ教徒に戻った。
1944年9月2日(土曜日)の午後、ヴェステルボルクに来てから1ヶ月が経過する前に、点呼があり、収容達に、明朝ヴェステルボルクから移送列車が出発する旨が単刀直入に伝えられた。
保安部門の協力者によるルーティン的発表。
1942年7月半ば以降、100回の列車が発車していた。
それについては精密な記録が残っていた。
67回がアウシュビッツ行き、19回がソビブル行き、6回がテレジェンシュタット行き、そして8回がベルゲン=ベルゼン行き。
こうした輸送は、当時のドイツ国鉄では特別輸送と呼ばれていた。
保安部門の協力者達はルーティン化した行事を発表するかのように、淡々と移送該当者の名前を読み上げた。
アルファベット順。
男498名、女442名、子供79名。
以上1019名。(移送されるのは毎週400名程じゃないのですか?何週間も移送されていなかったから、移送されなかった間の人数も含まれた移送ですか?)
フランク一家はすぐに知った。
Fの姓の中に自分達の名前を聞いたのである。
解放される方法なないのか?
せめて延期でも?
救いの日々が今まで続いていたのに、連合軍が玄関先まで来ているのに。
Pの姓にファン・ペルス家とプフェファーの名があった。
行き先は告げられなかった。
ただ、ヴェステルボルク到着時に預けた携行品は携行してよろしいとだけ。
せめて4人一緒にいられる、と言ってフランク家は互いに慰め合った。
もし途中で別れ別れになったら、バーゼルのおばあちゃんに連絡する事。
アリス・フランク=シュテルン、ヘルプスト通り、11番地、バーゼル、スイス。
収容者達は自分がまだ持っていた毛布、それにわずかな配給食糧をトランクとリュックサックに入れた。
エーディトは懲罰用のつなぎを入れる時にこっそりと赤い当て布を外した。
こうすれば、どこへ来て行こうと懲罰用とは分からない。
1944年9月3日朝まだき、保安部門の監視人達は、1019名の人間をバラックから外に出し、長い列を作らせて線路に向かわせた。
収容者達は、重装備のSSと機敏な犬の前を通ったが、その後、移送が客車ではなく、牛馬運搬用の車両だと知って唖然とした。
まるであざけっているかのように小さな、格子のはまった小さな窓が2つあるだけ。
車両全体を見るには長身かたまたまその方向を向いて立っていないと駄目だ。
ベンチ上の座席もなく、冷たい、わらの残りが床にばら撒かれているだけで、その床を通して線路がのぞける。(もしかしたら、このまま床が抜けて逃げられるかも。)
片隅には空のバケツ。
隣にもバケツがあるが、そこにはなみなみと水が注がれていた。
保安部門の係員だった女性(この人もユダヤ人?)が後に語ったところによると、抵抗も抗議もなかったし、収容者の大半は落ち着いているように見えた。
老人、女性、子供は男達の助けを借りて車両によじ登り、トランク類を頭上に持ち上げた。
どうしようもないと思っていたからで、諦めのあらわれだった。
60人、70人、あるいはそれ以上のいずれにせよ窒息してしまいそうな程の大勢の人間が各車両に詰め込まれていた。
加えて各自の荷物、自分の家畜だって絶対こんな風に送りたくないような状況。
自分のひじが車両に最初に入った人とか、何らかの偶然に恵まれた人達は、空気穴の下の場所に行ったり、せめてうずくまれる隅の方とか、少なくとも寄りかかれる壁際に向かった。
1人ぼっちでないものはまだしも、配偶者とか父母、友人などに支えてもらった。
1人当たりの占有面積は0.25平方メートル以下だったという計算結果が出ていた。
1台の車両が満員になると、監視人達は鉄のドアを閉め、重いかんぬきを外からかけた。
中は暗くなった。
例の小さな穴からわずかな光線が差し込んでいたが、暗い事に変わりはなかった。
何分もしないうちに、空気が欠乏し、窒息しそうになった。
だが、ことによると長くは走らないかも……。
全員を乗せるのに1時間以上要した列車は、その後ようやく走り出した。
1944年7月以降の2年間にヴェステルボルクを後にした計103回の移送のうち、最後から3番目の輸送だった。
その翌9月4日には、ヴェステルボルク収容所からテレジエンシュタット向けの列車を出発し、そこにはキティーとその弟、その両親が乗っていた。
そして9月13日にはベルゲン=ベルゼン行きが出た。
フランク一家を乗せた列車はアウシュビッツ行きだった。(申告していればテレジエンシュタットに行けたかもしれないのに。)
だが、車内では、どこへ向かっているか分からず、フランク一家は悪い予感がするばかりなので考えたくもなかった。
ドイツの収容所へ行って、強制労働をさせられるのかも……あるいは連合軍がこの列車を停めてくれるのでは?
連合軍はそんなに遠くでないはず……ことによると線路が爆撃されて……ことによると……。
オランダを去った事は人づてに聞いて分かったが、時速50キロ、60キロで何時間も進んで行き、暗闇の中で体がきつく触れ合ったままでいるうちに、場所の感覚、時間の感覚が失せて行った。
それに伴い勇気も。
列車は幾度も停車した。
どこかの田舎の駅で、しばしば何時間も。
時には車両のドアが開き、(その間に逃げようとは考えなかったのでしょうか?勇気が無くなったのだと思いますが。)中に水が運ばれる事もあったが、もちろん少量で、のどが渇いた人たちはそれを侮辱と受け取った。
だが通常は水が全く無く、その代わりに荒々しい声が、貴重品、指輪、時計、金貨などはないかという声が収容者に浴びせられた。
停車の目的もどうやら、この拷問に似た移送時間を引き延ばし、方向感覚を失った移送者を飢えさせ、のどをカラカラにさせていじめ、それによって力と意欲を失わせる事のようだった。
列車が停まって隙間風が入って来なくなると、中はいっそう蒸し暑くて耐え難くなり、バケツと悪臭及び、途中で亡くなった人達(そりゃあ途中で死ぬ人がいるでしょう。)の異臭が収容者達の鼻を刺した。
こうやれば自尊心が失われる事をナチスは知っていた。
アンネが1944年9月3〜4日の夜に、おそらくドイツ中央部で貨車にうずくまりながら父親に寄りかかって眠ろうとしていた時、以前彼女を崇拝していたヘロー・シルベルベルフは、ヴェステルボルクからわずか150km離れた、ブリュッセル近郊のある村でわが身の解放を祝っていた。
潜伏前日の1944年7月5日に彼がアンネを最後に見た時以降、彼の人生は劇的な変貌を遂げていた。
ヘローは当時16才、もちろん強制労働の呼び出し状が来るのも目前だった。
1942年8月初頭のある日、ヘローはある友人の所を尋ねたが、帰宅途中に検束に遭ってしまった。
8時数分過ぎだった。
ユダヤ人は8時以降は外出禁止になっていた。
ヘローは捕まって、ほかのユダヤ人と一緒にトラックに乗せられた。
だがすぐには諦めなかった。
トラックが発車すると、ヘローは飛び降りて逃げた。
その晩、彼はカンカンになり、ユダヤの星を上着から引きちぎり、その後はもう2度と星を付ける事は無かった。
一目見ただけでユダヤ人だと分かってしまう。
その数日後、次の検束が始まった。
ドイツ人兵士達がアムステルダム・ゾイド地区の街路という街路を封鎖して、ユダヤ人青年がいないかどうか、1件ずつしらみつぶしに探した。
強制労働用の人員を求めていたのだ。
ヘローの祖父母の家もノックされた。
在宅していたヘローは、タンスの陰に隠れた。
奇跡的にも、警官には見つからなかった。
1週間以内に全ての準備が整った。
ある若いジャーナリストがヘローをベルギーの両親の所まで連れて行ってくれるという。
祖父母はヘローが行方不明になったと、アムステルダム警察の外人課に届け出た。
ヘローが行方不明になったのに祖父母が関わったという疑惑を萌芽のうちに摘み取るためである。
ヘローは避難民3人と一緒に、列車でオランダ西部の町ルーモントに向かった。
国境付近のある喫茶店で、国境警察のシフト交換が行われるのを待ち、その後4人で自転車で不法越境し、ベルギーに入った。
ユダヤ人が列車や自転車に乗る事を禁止されていたが、ヘローは激情に駆られていた。
ドイツ人(モッフィー)の鼻をあかしてやった。
ブリュッセルでは支援者が、両親の住む通りまでヘローを案内してくれたのだが、その時は、何と、偶然としか言いようが無いが、父が向こうからやって来たのだ。
4年間父子は会っていなかった。
父レオ・シルベルベルフは合図の口笛を聞かなかったらヘローだと気が付かなかっただろう。
それは祖父と父がいつも決めていたメロディー、ヴェートーヴェンの第8交響曲の一節。
ベルギーも危険になったので一家は潜伏する事を決意する。
一家はブリュッセル空ほど遠からぬ所の、ある家に隠れた。
偽造書類を一度も調達しなかったフランク家(裕福なんだから偽造書類ぐらい調達出来たと思うのですが。)とは異なり、ヘローは偽造の身分証明書を手に入れた。
姓はシルベルベルフからメルテンスに変え、名の方はフランス語に近い言葉を話すベルギー人はHの字は発音出来ないので、本名のヘムルートから(ヘローは愛称)エドモンドにした。
だが、アンネ達と違って、はるかに恵まれていた。
戸外にも出られるし、ジャガイモ畑で盗みをはたらいでも捕まらなかった。
危険が及ぶと森の近くの洞穴で身を隠し、ヘローは壁をはい上がり、女子修道院に逃げる事も出来たし、尼僧から時々食糧をもらう事もあった。
運命の1944年9月3日、アンネが非人間的な状況で、死のアウシュビッツ強制収容所に向かっていた時、ヘローは隠れ家の屋根から連合軍の白い星を付けた装甲車を見た。
戦争が終わったんだ……救われたんだ……。
彼はその時わずか何百キロしか離れていない所を昔の女友達が次の悲惨な血へ向かっているとは知る由も無かった。
2日後、大半の収容者は無気力になっていた。
車両のドアが開くとドイツ人が荷物はそのままにして降りるようにがなっていた。
目にはSS(ナチ親衛隊)の自動拳銃と縞模様の上下の服を着た髪をすっかり刈られた囚人が入った。
耳にはラウドスピーカーの轟音と興奮している犬の吠え声。
鼻には、どうも甘ったるい匂いが漂って来た。
SS隊員は脅迫的な怒鳴り声と犬用の柄が短くて良くしなる鞭で整列させた。
強制収容所は、SSが正式に用いていた短縮形は本来KLだったが、KZの方がきつく響いていたのでそれを使っていた。
第三帝国ではそれが一般的に使われていた。
ラウドスピーカーからの命令。
病人と子供、その他歩行困難と思う者は、用意されているトラックに腰を下ろす事。
乗るなよ!
髪をすっかり刈られた収容者達が叫ぶ。
収容者は知っていた。
だが、トラックはすぐにいっぱいになって走り去った。
残った者は、針に似た曲がった鞭で5列に並ばされた。
この荷役ホームでは収容者たちに何が起こっているかを知られてはならない。
全員が受ける事になっていた医師の検査も無し。
SSの医師のヨーゼフ・メンゲレかヨハン・クレーマー、あるいはほかの人物が1人、また1人を呼び付けたが、診断は2、3秒で終わった。
実にいい加減な見立てで、そそくさと年齢と持病を尋ねられる事もあったが、そうしない事もあった。
ともあれSSの医師は首を左右に振り、SS隊員に犬用の鞭で左右のいずれかを指示した。
一般には15、16才以下に見える者、年配者は左、丈夫そうな若者は右だった。
選別呼ばれた恐怖の賭けで左に送られた者、あるいはトラックに乗せられた者はその日のうちに殺害されたり、人体実験の対象となった。
到着した収容者を頻繁にガス室に送っていた上述のSS医師ヨハン・クレーマーが1942年10月にここに比べればダンテの地獄など喜劇だと日記に記していた。
右の者はしっかりと立てる限りは無益の労働として提供された。
これは労働を通じての絶滅と呼ばれていた。
ヴェステルボルクからの1019名の収容者は1944年9月5日のうち、生き残ったのは男性258名、女性220名だった。
子供達は全員殺害された。
ガス室で殺害され、遺体は焼却場で焼かれた。
アンネは15才3ヶ月最年少で生き残った。
収容所に入ったという事は、収容所長のいわば駒になった事を意味した。
アウシュビッツでは死ぬより苦しい事を知った。
男性は3km離れた第一収容所へ、女性はビルケナウの女子収容所まで走らされた。
消毒のためにサウナに入らされた。
消毒が進むにつれて尊厳が奪われた。
すでに何十万人が経験しているが、エーディトとマルゴーとアンネは名前を奪われ、腕に番号の入れ墨を入れられた。
おそらくA-25060からA-25271までの、いずれかの入れ墨が入れられた。
大きな番号を入れられた収容者は収容所内の年配者やカポ――労働を監督すべくSSから任命された収容者でポーランドの犯罪人がなる事が多かったに抵抗する事が難しかった。
消毒とは裸になり、恥毛とわき毛、頭髪を刈られる事を意味していた。
しらみ駆除が口実だが、尊厳や女性らしさを奪うためだった。
髪の毛はアンネにとって個性発揮の手段だった。
恥辱を免除される人も中にはいた。
女性に刈ってもらうのだが、男性に刈られる人もいた。
つまり、ある部屋ないしブロックの年長者、つまり特権を持った収容者がほかの収容者に気分転換で刈らせていた。
その代わり、パンないし、タバコをせしめていたのである。
刈った髪をキロ当たり50プフェニヒで繊維業界に売られ、毛布や長靴下、その他の実用的な製品を作り、馬の毛製品として売っていた。(買った人は分からなかったのでしょうか?今なら偽装問題で大騒ぎですよ!)
裸にされ、頭髪を刈られ、完全に侮辱され、喉の渇いた女性達は最後に広いシャワー室に連れて行かれ、シャワーを浴びた。
冷たい水が出る時もあり、やけどする位の熱いお湯の時もあった。
飲むんじゃない!
飲めばチフスか赤痢になる!
そういう噂が広まっていた。
シャワーを浴び終えると薄いにも程があるボロ服を渡され、それを着てもいいぞと言われ、並ばされて、点呼が行われた。
こうした事が毎週繰り返された。
夏にも、土砂降りの秋にも、冷え切った冬にも。
だが、点呼はシャワーの後でだけではなく、毎日実施された。
朝は、12時間労働の前でたいてい短かったが、何か違反した時には罰として何時間も立たされた。
並ぶのは5列で間隔は腕を伸ばした時の長さ。
収容者同士で支えられないようにするためだった。
番号を言うのだが、一人でも足りない時は大変な事になった。
収容所で生き残ろうとしたら入所のショックを克服したらすぐにアブノーマルこそノーマルな状態に慣れねばならなかった。
つまり、今までの道徳観を捨て、死者や死に行くものには目もくれず、体を機械のように動かし、怪我とか侮辱は気にしなくなる事。
自分の命を保っていくためには盗みを行い、食器は宝物のように大切にする事。
食器がなければ配給用のスープも飲めないからだ。
テログループには入らず、むしろ反テログループに入る事。
あまりにもゆっくり作業をしたり、とんでもない時間に用便を足したり、見てはならないという方向を見たり、ジャガイモの皮を炊事用ブロックで食べたりしたら罰が下された。(生き残った方達の体験談でしょうね。)
罰のきつさは監視人の気分次第だった。
収容所内でのアンネは彼女に出会った女性達の記憶では、静かに考え込み、残酷な場面に出くわすと、それが分からなくて困惑していたという。
また、ガス室に連行されて行く子供を見ると、泣いていたと。
だが、一方では勇敢で強かった、例の親切心で周囲を明るくし、母とマルゴーに余分にパンを調達して来た。
どちらか一方だけが正しい事はなかっただろう。
アンネはほかのオランダ女性同様、石を運ぶとか、芝生を一定の形に掘ったりしていたのだろう。
夜も忍耐だった。
千人以上の女性が1つのバラックに寝ていた。
本来は52頭分の厩舎として設計されていた建物だったが、3段の板張りの寝台が置かれ、に10人位の女性がぎゅうぎゅう詰めになって、出来るだけ静かに寝なければならなかった。
敷布団など無かった。
ただし、幸運に恵まれれば、せめて薄い毛布にくるまる事が出来た。
誰かが寝返りを打つと、ほかの人全員も回転せねばならなかった。
ほかにダニやナンキン虫もいて毎週駆除剤が散布されていたが、効果は無かった。
こうしたおぞましい虫類が弱り切った体に食い付くと、ひどくかゆくなり、もしその箇所を指でかけば、激痛を伴う膿瘍になったり、傷口が開いたりした。
アンネの体調が崩れたのも遅くは無かった。
肌の炎症が2、3週間でひどくなり、疥癬ブロックに移された。
あそこはひどい場所だとロザ・デ・ヴィンテルが1945年に書いていた。
周囲に高い壁がめぐらされ、完璧に隔離されていた。
明かりは1つも無かったので、暗闇の中で自分の寝場所を探さねばならなかった……。
ネズミが女性達の体の上をはい回り、……女性たちは悲鳴をあげたり鳴いたりして……殆ど耐え難かった。
いずれにせよ眠る事など考えられなかった。
アンネにはマルゴーが付き添っていた。
事によると母エーディトも。
だが、生存者たちの記憶はまちまちであり、エーディトは別のバラックに居残っていたので、疥癬ブロックの外壁に開いていた穴を通って、自分用の配給のパンを娘達に持って行ったと言う人もいた。
エーディトは娘達の近くにいる限りは、自分の食事を取ろうとしなかった。
エーディト、マルゴー、アンネは約8週間というもの、互いに助け合って生きていたが、(呉越同舟ですね。)1944年10月末頃、新たな噂が聞こえてきた。
ソ連軍がアウシュビッツからわずか数百キロの地点にいるという。
またしても希望を抱いたり、不安になったり。
タイミング良く収容者を救ってくれるだろうか?
アウシュビッツに何も手を下さなかった連合軍が、そもそも収容者達の心配をしてくれるだろうか?
ナチスの方が先手を打って収容者達全員をガス室に送り込まないだろうか?
だが、実際には国家公安本部(在ベルリン)は収容所長宛に別の命令を出していた。
ナチスの全ての強制収容所、労働収容所、絶滅収容所――22の主収容所と1200の副収容所――の中で最大かつ、最も効率の良いこの収容所の撤去を開始せよ!
またも選別。
1944年10月28日、ユダヤ人1308名はビルケナウ女子収容所からドイツ北部のベルゲン=ベルゼン強制収容所へと出発した。(余談ですが、私の母が同じ頃に生まれました。)
マルゴーとアンネがその中にいたのはほぼ間違いなかった。
それにおそらくはアウグステ・ファン・ペルスも。
いずれにせよこの3人は、オランダ赤十字が呼んだ名称では、病気だが、回復の見込みのある女子に属していた。
マルゴーとアンネは、家畜運搬車両の中でどうなっていたかもう知っていた。
確かに今回は女性だけの輸送であり、ごく少量とはいえパン、チーズ、マーガリン、水が途中で与えられたと思われるが、寒気と湿気が疲れ切った体を刺すようだった。
薄いボロ服では、2人の女の子の体を守る事は出来なかった。
輸送は5日5晩以上続いた。
列車は迂回、停車を繰り返したが、爆撃を避けるためであった。
マルゴーとアンネ――おそらく生まれて初めて両親の庇護から離され、寒さに凍えながらも衰弱した体を車両から降ろされたが、その後女性全員が収容所のある場所まで6、7km歩かされた。
健康な人でも1時間半は掛かる距離であった。
ベルゲン=ベルゼンは混乱を極めていた。
収容所にはこんなに多くの新入りを収容出来るスペースなど無かった。
1943年7月、ナチスは、軍隊・捕虜収容所の一部を、強制収容所の副収容所とした。
その1つが、特権的な交換用ユダヤ人の居住するベルゲン=ベルゼンの武装SS滞在収容所だった。
収容者の大半は1944年1月〜9月にヴェステルボルクから移送された人達で、その人数は計3670名。
その中にユダヤ人中学校の学友だったナニー(本名ナネッテ・ブリッツ)、それから友達のハンネリ・ホースラル(リース)とその父、妹ハビーがいた。
1944年8月、スペースの不足していたベルゲン=ベルゼンは、ほかの強制収容所からやってくる女性達用の一種の通過収容所としてテント施設が設けられた。
マルゴーとアンネは衰弱して飢えた女の子の体がどこまで耐えられるか、それを研究するのが重要であるとでもナチスが思ったかのように、歩行行進の後、何の食事も無く、体を拭く事もなしに、そうした巨大なテントに押し込められた。
それは巨大な物置というべきか、各テント内の湿った土の上に、何百人という女性がぎゅうぎゅう詰めになって、しゃがみ込んでいた。
トイレも無し、洗面設備も無し、ベッドも無し、明かりも無し。(ガス室も無し。)
横に寝る事など、とても考えられなかった。
だが、少なくとも外の雨風からは守られた。
ベルゲン=ベルゼンでの女性たちの苦痛は想像を絶するものであった。
だが、虐待と悲惨は更にその度を増していった。
到着から4日後、嵐がこの収容所を襲い、いくつかのテントが吹き飛ばされてしまった。
マルゴーとアンネのテントも吹き飛ばされてしまった。
寄る辺の無い女の子たちは、新たな収容施設が出来るまで――その期間は生存者によりまちまちで、数時間だったとも数日(随分開きがありますね。)だったともいわれる――倒れたテントの中に潜り込んだ。
ことによると、マルゴーとアンネは納屋の中に入ったかもしれないし、みぞれの中をさまよいながら、何か食べられるものを探していた組かもしれない。(木の実でも探していたのでしょうか?)
倒れたテントにいた人達を収容するために、バラックから2段ベッドが取りのけられ、それよりはるかに小さな3段の板張りの寝台が置かれたが、これはベッドというよりは、木製の棚に等しかった。
しかも今後は全て収容者2人共用という事になった。
そして収容所中央に電流入りの有刺鉄線が張りめぐらされ、好条件の交換用ユダヤ人とその他のユダヤ人が隔離された。(その前に交換用ユダヤ人の所に行った人達はラッキーです。交換用ユダヤ人がその他のユダヤ人の所に行ってしまったかもしれませんが。)
こんなにまで侮辱された人々は毎日を神からの贈り物だと見なしていた。
食事はごくたまだったし、量も足りなかった。
小さなパンか、飼料用ビートが浮かんだ薄いスープ位。
衛生状態を気にする者などもう1人もいなかった。
マルゴーとアンネはまだ互いの事を思う責任感を堅持していたが、それは、両親がまだ生きているという願望を2人共持っていなかったからである。
2人は毎日、足を引きずりながら、わらに覆われた有刺鉄線の所に行った。
こうした事は厳禁されていたが、有刺鉄線の中の人間は、ほかの収容者よりもはるかにいい待遇を受けていた。
小包を受け取る事も許されていたし、副収容所の人に何か食べ物を渡す事もよくあった。
到着後ほどなくして、おそらく1944年11月頃だっただろう、アンネは学友のナニーに出会った。
別の場所に収容されいたナニーは、アンネがベルゲン=ベルゼンに来ている事を偶然知ったのだ。
ユダヤ人中学校ではそんなに親しくなかったが、アンネの誕生日パーティーに招かれていた。
以前の偏見などもう問題ではなかった。
2人の女の子はここで会えた事に狂喜した。
アンネとナニーは何度か話す事が出来たが、そんなに長くはおしゃべり出来なかった。
最初、アンネはナニーを見るとうおおおおおおおお!!ナニー!!!と絶叫しながらナニーに駆け寄って来たが、ナニーはアンネの坊主頭、くぼんだほお、発疹を見て、最初はアンネだと分からずにうぎゃああああああ!!おばけー!!!と涙と鼻水を出しながら逃げ、アンネはナニーをまってー!!!待てー!!!と叫びながらナニーを追いかけた。
ナニーがやっとアンネだと分かると、ショックを受けつつも、近況や将来の事について語り合った。
アンネは戦争が終わったら、日記を基礎にした本を書きたいと言った。
だがアンネが一番気にしていたのは、両親のその後だった。
アンネはナニーに語った。
母はベルゲン=ベルゼンの移送の時に一緒じゃなかった。
父は55才で、薄い白髪頭だから、SS監視人の目には、もう老人に映るだろう。
そうなれば、アウシュビッツで聞いた話だけど、到着直後にガス室行きだっただろう。
アンネは、衰弱した母エーディトが2人の娘と離れ離れになって絶望はしていたが、それでも勇敢に生きようとしていた事実を知りえなかった。
母はロザ・デ・ヴィンテルを友にしていた。
この2人は一緒の疥癬ブロックに移された時――互いに支え合おうとした。
堅く結ばれた2人は、戦争直後のロザの記憶では、見知らぬ女性の毛布に潜り込んだ。(その女性はどうなったのでしょうか?)
だが、眠るなんてとても考えられなかった。
だが、それが幸いした。
翌朝、何人かがそのブロックから点呼の命令を受け、その中にロザとエーディトがいた。
ロザが遠くから見ていると、疥癬ブロック内で動けなくなっていた女性300名以上はトラックで運ばれ、殺されたのだ。
エーディトとロザは、労働不可能な収容者の仲間入りをし、いわゆる保護ブロックに入った。
何週間か経過し、SSの長官ヒムラーの命により、アウシュビッツ=ビルケナウではガス室の取り壊しと共に、第1、第2焼却場の撤去が始められた。
1944年12月1日〜1945年1月半ばに50万人以上人々がアウシュビッツから移送された。
例えばプフェファーは、ハンブルクのはずれのノイエンガンメ強制収容所に送られた。
元は硬質なレンガ工場の建物だったが、そこの収容所の死亡率はドイツ国内のその他の収容所に比べ、目立って高かった。
プフェファーは1944年12月20日に死亡した。(大半の人達は死亡日や死んだ事など分からないと思います。)
エーディトはアウシュビッツから移送されなかったものだが、そこの生活状態は日に日に悪くなって行った。
ロザが後に語ったところでは、喉は渇くが水が無く、朝になると戸外で体を雪で洗われた。(シャワーも使わなくなったんですね。)
コロモジラミのために彼女たちは狂気の寸前まで追いやられていた。
コロモジラミは発疹チフスなどの熱病を媒介する。
エーディトの体もそれほど長くは抵抗出来なかった。
ロザが彼女を病院バラックへ運び込んだ時には――エーディトは病院に対する選別を恐れていた。(その時にはもうガス室は無かったんじゃないのですか?)
エーディトはなんとしてでも病室に入りたがらなかったのだが――熱は41度になっていた。
病室には少なくとも暖房が効いていた…。
1945年の1月のある日、ベルゲン=ベルゼンのマルゴーとアンネは保護ブロックに移されていた。
ナニーは2人の姿を見なくなった。
だが、別の女の子、オランダ出身のマルゴー・ロゼンタルが――零下40度の時にアウシュビッツ=ビルケナウからベルゲン=ベルゼンに移送された子――が1月初頭にマルゴーとアンネにエーディトが生きていると初めて伝えた。
だがもうその直後にはエーディトの病状は坂を下るように悪化し、配給のパンも食べずに夫と娘のためよと熱っぽい声で告げた。
1945年1月6日、エーディトは亡くなった。
ナチスによって飢えさせられ、殺されたのだ。(パンを食べる気にはならなかったのでしょうか?)
アンネはマルゴー・ロゼンタルと話した後でも母が生きているとは信じていなかったようであった。
1945年2月、彼女はリースに向かってもう母はいないのと、有刺鉄線越しに話していた。
リースは1944年2月以降、ベルゲン=ベルゼンにいたが、交換用ユダヤ人として別の場所で暮らしていた。
リースは、有刺鉄線の向こう側にオランダ女性の一団がいて、その中にアンネもいたことをある知人から聞いたのである。
ある晩、リースは有刺鉄線の近くまで行ってアンネの名前を呼んでみた。
下手をすると捕まってしまう。
アウグステ・ファン・ペルスがリースの声を聞き付けて、おそらく重病だったアンネを有刺鉄線まで連れて行った。
マルゴーはもう衰弱しきっていて、一緒に行けなかった。
アンネはリースを見るとうおおおおおおおお!!リース!!!と絶叫しながらリースに駆け寄って来たが、リースはアンネが変わり果てた姿だったので、アンネだと分からずにうぎゃああああああ!!おばけー!!!と涙と鼻水を出しながら逃げ、アンネはリースをまってー!!!待てー!!!と叫びながらリースを追いかけた。
だが、目の前には有刺鉄線が張りめぐらされていた。
リースはアンネだとやっと分かり、アンネは、友達と生きてまた会えた事に狂喜した。
隠れが時代のアンネは何度もリースの夢を見て、潜伏前の何ヶ月か、思春期ならではの傲慢さゆえに自分がリースをわざと無視した事を恥じていた。(それって、思春期だけで片付けていいのでしょうか?)
思えば随分ひどい態度を取ったものですが、その彼女が今こうして私を見ている。ああ、何と頼りなげな、青ざめた顔、訴えるようなまなざしでしょうとアンネは1943年11月27日の日記に記していた。
アンネはリース一家が6月に検束されていた事を知っていて、きっともうポーランドで死んでいたのだろうと想像していた。
……(私は)決して彼女よりも立派な人間なんかじゃないのに。彼女は正しくあろうと努めていたのに。なぜ私は選ばれて生き延び、彼女は死ななくてはならないのでしょうか。……リース、リース、あなたをその苦しみから救ってあげられさえしたら
ところが今、リースの方が自分よりも恵まれている事が判明した。
リースはもう1年前からベルゲン=ベルゼンにいた。
リース、妹のハビー、父親、それに祖母は半年以上という異常に長い期間ヴェステルボルクでの滞在が許されていた。
彼女たちの名はパレスチナ・リストの2冊目にあったのでポーランド行きにはならなかったのだ。
1944年2月15日、全員が移送されたが、ありがたい事に行き先はベルゲン=ベルゼンだった。
リースは到着してから、2日後に黄疸になったが、手厚い看護を受けた。
ナチスは彼女の事を一種の担保とみなしていたのだ。
時が来ればパレスチナ・リストに載っていたほかのユダヤ人共々ドイツ軍の捕虜と交換される事になっていた。
だが、その時はまだ来なかった。
祖父アルフレート・クレーはヴェステルボルクで心臓発作で亡くなった。
母親は?
母親は3人目の子を死産した時に亡くなった。
アンネは隠れ家にいた時に3人目の子が死産した事を聞いていたが、母親が亡くなった事はアンネが興奮しないようにという配慮から伝えなかった。
友達同士のこの再会は、悲劇的な状況で起こった。
互いに顔は見えないし、有刺鉄線を通して話せるだけ。
アウシュビッツで髪を刈られたの、私の物も全部とられちゃった。
服もね、ひどく寒いし、シラミにはもう耐えられないわ。
それはアンネの声とは思えなかった。
その言葉からは、深い絶望が聞き取れた。
アンネはリースに父はもう死んだわといった。
だが、父オットーが1945年1月27日にアウシュビッツが解放されていたことを知っていたならば、また生きる意欲が湧いたかもしれない。
オットーは選別の後、ファン・ペルス父子(ヘルマンとペーター)およびプフェファーと一緒に、主収容所である第一収容所のブロック二に収容された。
彼らはラッキーだった。
ここのブロックの室長の1人がマックス・ストッペルマンであったからである。
実はヒース夫妻(ヤンとミープ)がまた借りしていたアムステルダム・ゾイド地区のフンゼ通り25番地のアパートは、そのマックスの母親が大家だったのだ。
オットーは新聞でのアパート探しを諦めて、ストッペルマン夫人とミープが接触出来るよう、取り計らったのだが、その時の夫、マックスと知り合いになったのだ。
マックスとステラ夫人は1943年秋にヤン・ヒースのの仲介で、ラレン(アムステルダム南部の町)にすむあるオランダ人家族の下に潜伏したが、半年後に密告されてしまった。
ペーター・ファン・ペルス――30才前後だが小柄だが上半身はレスラー並み――とも親しく、マックスの母親が生きていることを伝えると、そのお礼にアウシュビッツでのサバイバル術を教えた。
ペーターを自分の保護下に入れ、自分のそばから離れるな、決して諦めるんじゃないと教え込んでいた。
ペーターは郵便の作業をやっていたようで、何とか持ちこたえたようだった。
それに反し、彼の父へルマンはオットーやプフェファー同様、屋外での作業をやらされていた。
ヘルマンは10月初め頃指にケガをし、明日は室内勤務にしてくれとカポに頼んだ。
健康を損なう事がどんなに危険か、彼は知っていたはずだった。
しかもその日は、SSがバラック内を所狭しと駆けめぐった日だった。
選別。
ヘルマンはSSの勝手な判断の犠牲となった。
オットーも1945年11月、もう駄目だと思った瞬間があった。
過酷な労働で衰弱し、カポに殴られた日もあった。
その後どうなったか、1945年7月に母宛にこう書いていた。
……あるオランダ人医師の通報で病院に収容されました……(そこに留まっていたら)1945年1月27日にソ連軍が解放してくれました。
その病院では何の治療も施されなかったが、少なくともカポに殴られる事は無かった。
ペーター・ファン・ペルス(18才)はアウシュビッツ到着以来、オットーの面倒を献身的に見た。
オットーは身長180cmだったが、体重は52kgしかなかった。
1945年1月半ばペータ・ファン・ペルス――マックスの保護下にあったので栄養状態に恵まれていた――はオットーに最後の見舞いをして、こう告げた。
この収容所は撤収されるので、一緒に出される事になる。マックスからは、近くにいれば大丈夫だと言われてるんだけど。
オットーはここに残るように説得するが、ペーターは1945年1月17〜18日の夜、ペーターは薄い服を着て、食料は何一つ持たずに、何千人という収容者と一緒にいた。(私だったら残るのに。)
その大半はユダヤ人。
100km程離れたヴォジスワフに向かって歩こうとしてした。
彼らは何日間も歩き続けたが、食べる物は雪しかなかった。
ペーターはマックスのそばを離れてしまい、別の死の行軍の隊列に入ってしまった。
ペーターはおそらく各地をめぐらされた末、貨車でマウトハウゼン強制収容所へ移送されたものだと思われる。
そして公式の収容者名簿によると1945年5月5日、つまりアメリカ軍がこの強制収容所を解放した当日に亡くなった。
オットーはSSに追い立てられ、1月26日に間一髪のところで殺されると思ったが、SS隊員達は1945年1月27日にアウシュビッツに入って来た赤軍を前にして逃亡した。
収容者のうち生存者数は7650名、内訳はアウシュビッツ第一収容所が1200名、第二収容所(ビルケナウ)が5800名、第三収容所(ブーナとモノヴィッツ)が650名。
生存者の扱いをソ連が決定するまで、彼らは収容所内にいた。
この状態が2、3週間続いた。
食料は十分にあった。
ナチスは収容者達を飢餓状態にしていたくせに、予備の食糧を膨大に貯えていたのである。
だが、依然として水は問題だった。
周辺の氷結した湖の氷を割って来て、解かさねばならなかった。
オットーは、ヴェステルボルクからアウシュビッツに最後に移送された1019名のうち生き残った男性45名、女性82名の1人だった。(女性の方が少し多いような気がします。)
金曜の晩、彼は解放された人達と一緒に安息日の始まりを祝った。
信心深い人は1人としていなかったが、ヘブライ語の祝福の言葉はオットーの耳に残っていた。
金曜日の晩のこの儀式を、彼は、アムステルダムのホースラル家で頻繁に体験していたのである。
彼は今、その場にいた全員に祝福を与えていた。
オットーはアウシュビッツの全収容者同様、ドイツの収容所の方がポーランドよりましだと考えていた。
1944〜45年の冬のベルゲン=ベルゼンが非人間的な状態であった事を彼は知らなかった。
超過密状態であった同収容所内では、処刑こそ実施されなかったものの、計1万人が死亡した。
飢餓と喉の渇きで衰弱し、赤痢、チフス、ジフテリア、結核という伝染病が蔓延した。
同収容所内でマルゴーとアンネがいた場所について、イギリスのアンドルー・ピーターズ大尉は戦後、こう語っていた。
環境はひどかった。通常60名が収容されるバラックに、600名が入っていた。衛生上の秩序など何も無く、そのバラックの床と外は、遺体と排泄物、ボロ、そして腐敗物ばかり。収容者達は自尊心を失い、動物レベルになっていた。着ている物はボロ切れで、しらみがたかっていた。
1945年3月にベルゲン=ベルゼンだけで1万7千人以上の人達が死亡した事は間違いない。
リースはクッキー、手袋、ないしはストッキングの入った小包を有刺鉄線越しに投げた。
有刺鉄線の向こうから何やら叫び声が聞こえ、アンネはそばにいた女性が小包を離してくれないのと言った。(その女性はどうなったのでしょうか?他人の小包を奪い取る元気があったので生き延びたのでしょうか?)
しばらくして、リースはまたクッキーと手袋の入った小包を投げると今度はアンネが受け取った。
アンネとリースは3、4回会ったが、アンネは服にしらみがたかっていたので捨て、薄い毛布1枚にくるまっていた。
リースが発疹チフスにかかり、1945年2月25日に父ハンスが亡くなり、リースは父の死を悼んでいたので有刺鉄線の所には行けなかった。
リースが再び有刺鉄線の所に行ったが、アンネの姿はもう無かった。
ほかの生存者達と一緒に別の場所に移されたようだった。
大半は無気力になり、衰弱し切っていて、死神に抵抗する力も無かった。
朝になるとバラック内で死んでいる人が見付かり、共同墓地に埋められた。
死者名簿の作成など、収容所管理部はとうに諦めていた。
マルゴーとアンネも、伝染病のチフスに冒されていた。
イギリス軍は1945年4月15日にドイツ国内で初めてベルゲン=ベルゼンをナチスの手から解放したが、2人の消耗し尽くした体は、その2、3週間前に病に屈していた。
1945年2月末〜3月半ばに、まずマルゴーが死亡した。
その数日後、後を追うようにアンネが亡くなった。
イルセ・ヴァーハネル(アンネの幼友達)
1943年1月にアムステルダムからヴェステルボルク通過収容所に移送され、その数週間後にソビブル絶滅収容所に送られた。
到着当日、(1943年4月2日)祖母と母親と共にガス室で殺された。(ガス室があったのはアウシュビッツだけではなかったのですね。)
ドロテア・ゾフィー・ヴュルツブルガー(アンネのまたいとこ)
1940年5月にアムステルダムの孤児院から両親のいるイギリスに渡り、戦後すぐにアメリカへ移住した。
その後、ニューヨーク5番街の高級百貨店、バーグトーフ・グッドマンのハウスマヌカン兼写真モデルを務めた。
フランク・スミスというチェコのプラハ出身の男性と1950年代半ばに結婚。(1938年にナチスのユダヤ人迫害から逃れるために上海にやって来た。)
ニューヨーク在住。
娘が1人。
ベルント・エリアス(アンネの従兄。愛称バディー)
バーゼルとチューリヒの俳優学校に通った後、最初は主にチューリヒの舞台に立った。
その傍ら、道化役のプロスケーターとしても活躍、1947年以降イギリスやデンマークのアイスショーに出演した。
1963年にドイツのテューリン州立劇場で共演したグラーツ出身の女優ゲルティ・ヴィートナーと結婚。
1949年にはホリデー・オン・アイスと契約。
1986年10月母のヘレーネが死んだ。
母が経営していた骨董店はゲルティが引き継いだ。
その数ヶ月前からバーゼルのヘルプスト通り11番地に在住。
1996年にはアンネ・フランク財団会長に就任。
2人の息子パトリックとオリヴァーも俳優。
シャルロッテ・カレッタ(日記時代にはプフェファーの恋人)
彼女は戦後、毎日のようにオットーに会っていた。
プフェファーがノイエンガンメ強制収容所で死亡した事が明らかになった後、彼女は正式な結婚の手続きを取った。(向こうでは死人と結婚出来るのでしょうか?)
その時の書類をオットーが用意してくれた。
1950年代に入ると、シャルロッテ(前夫と息子もアウシュビッツで殺された。)はオットーとミープらと連絡を絶ってしまう。
アンネの日記にプフェファーの悪口が書かれていたからであろう。
だからといって、夫のイメージを訂正しようとする意思は無く、アムステルダムでひっそりと暮らし、1985年6月13日に亡くなった。
1987年秋、アンネ・フランク財団の幹部職員、ヨケ・クニールマイイェルはアムステルダムのノミの市を冷やかしていて、偶然社ルロッテの形見の本、手紙、写真を発見した。
これによりアンネによって悪口を書かれたドクター・まぬけの実像に新たな光が当てられる事になった。
アウグステ・ファン・ペルス(ペーターの母)
ベルゲン=ベルゼンからプーヘンヴァルトを経てテレジエンシュタットへ移送され、1945年春頃死亡したと思われる。
ソル・キンメル(アンネの初恋の人)
1942年秋、母親が連行された時、学校にいて難を逃れた。
遠縁の家にかくまわれたが、そこも危うくなるとすでに数人のユダヤ人をかくまっていたある農家に身を寄せた。(アンネ達も隠れ家を移れれば良かったのですが。)
隠れ家生活は1年以上順調に続いたが、1945年初め、SSが農家に踏み込み、農家の主人とユダヤ人1人を射殺した。
1945年2月8日、ソルはヴェステルボルク通過収容所に連行された。
同収容所解放日(1945年4月12日)を、彼は867名の生き残りの1人として迎える事が出来た。(大半は自己管理していた人達でしょうね。)
母親はアウシュビッツに送られ、殺された。
オランダの大学で学び、プリンストン大学院で学んだが、イスラエルで暮らす事を決意する。
現在は、化学教授として癌研究に取り組んでいる。
結婚して、子供が2人。
イスラエル、ハイファ在住。
ヴィクトル・グスタフ・クーフレル(潜伏者達の支援者)
1944年8月4日に連行され、尋問を受けた後、オランダ各地の強制労働収容所(アーメルスフォールト、ズヴォーレ、ヴァーヘニンゲン)を転々とさせられた。
1945年3月、600人の収容者と共に、ドイツに移送される事になったが、移動中にイギリス軍の爆撃にあい、クーフレルはこのどさくさに紛れて、ヒルフェルシュムの自宅に逃げ帰り、カナダ軍にドイツ軍が降伏するまで身を隠していた。
戦後間もなく妻が死んだ。
1950年代の初め、再婚してカナダのトロントに移住した。
電気工や簿記係などをしてつつましく暮らした。
1973年、ユダヤ人への支援活動に関し、エルサレムのヤド・ヴァシェム博物館の正義のための委員会から正しき人の記念メダルを贈られ、正しき人の並木道に自分の名で記念植樹した。
1981年12月16日、長い療養生活の末亡くなった。
81才。
ハンネローレ・クライン(アンネの芝居仲間)
母方の祖母はキリスト教徒だというのは後ろ暗い秘密とみなされていたが、それが命拾いとなった。
祖母の夫(すでに他界)はユダヤ人であったが、純粋なアーリア人として役所に届けた。
孫達はユダヤ人との混血に過ぎないのですと役人を丸め込んだ。
数ヵ月後、ハンネローレ一家は強制収容リストから外された。
父親はユダヤ人であったが、長い間結核を患っていたため、強制収容所送りを免れた。
それからユダヤ人中学校からキリスト教徒の学校へ転校した。(ハンネローレもジャックみたいに午後にはユダヤ人の友達に会いに行っていたのでしょうか?)
1947年に前途有望な物理学者ルディ・ヌスパウムと結婚。
彼女と同じくユダヤ系ドイツ人だったルディはオランダの農家にかくまわれていた。
1956年、夫妻はジュネーヴに移り、1年後にアメリカに渡り、英語風にローリーンと改名した。
現在ポートランド在住。
ヨハンネス・クレイマン(潜伏者達の支援者)
7週間後にアーメルスフォールトから釈放された。
国際赤十字が病気のために緊急治療が必要だとして釈放を要請してくれた。
1944年9月末からオペクタ商会の経営を再開した。
1952年にオットー・フランクがスイスのバーゼルへ移住するとクレイマンは会社の経営を一手に引き受けた。(ちなみに事務所はとうの昔に別の場所へ移転していた。)
1959年1月30日、勤務中に死亡した。
63才だった。
アルトゥール・ザイス=イングヴァールト(占領地オランダ駐在のドイツ高等弁務官)
ニュルンベルク裁判で絞首刑の判決を受け、1946年10月6日に絞首刑が執行された。
1987年、孫息子のヘルムートがアンネ・フランク財団に接近して来た。
当時30才のヘムルートはアンネ・フランク財団で働きたかったのだ。
当時のマスコミはザイス=イングヴァールトの孫息子がアンネ・フランク財団に接近して来たので騒ぎ立てた。
孫にもナチスの犯罪の責任があるのかと言う人もいた。
ナチス・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールはヘムルートの考えを尊重した。
ヘムルートはザイス=イングヴァールトの孫息子という事で騒ぎ立てられた事を残念に思った。
学習障害児の指導に当たっている。
妻、2人の子供の一緒にオーストリア在住。
アンネリーゼ・シュッツ(ベルリン出身の女性ジャーナリスト)
ユダヤ人だが、キリスト教に改宗したとしてテレジエンシュタットに移送された。
戦後、オットーと再会し、アンネの日記のドイツ語訳を申し出て、アンネの日記をドイツ語に訳し、アルベルト・カウフェルンの妻、イーサがタイプし直したのだが、オットーは彼女の年齢では堅苦しい翻訳だと不満だった。
1991年に今までの日記でファン・ペルス家、プフェファー、母と姉の悪口、夫婦の不仲と性表現が削除されていたが、それらを削除していないアンネの日記の完全版が発行された。
カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー(アンネ達を拘束した中心人物)
第2次世界大戦後の1963年、ナチスハンターのサイモン・ヴィーゼンタールの尽力によってウィーンで拘束されたものの、証拠不十分やアンネの父親オットー・フランクの証言「ジルバーバウアーは高飛車な態度だったものの、上司の命令に従ったにすぎず、手入れの際も不法な行動はとらなかった」などにより、不起訴処分となる。
1965年から退職するまでの間、内勤にまわされて、指紋や犯罪者の写真の整理に当たった。
1971年死去。
ヘロー(現エドモンド)・シルベルベルフ(潜伏前のアンネの崇拝者)
解放後、普通の生活に慣れるため、潜伏生活で金を使い果たしたので、ブリュッセルの家具工場へ勤めた。
オランダはベルギーより遅れて8ヵ月後に解放された。(オランダはベルギーの目と鼻の先にあるのに解放されたのは8ヵ月後ですか。すぐに解放していればアンネ達は助かっていたかもしれません。)
ヘローはオランダの祖父母の所に行こうとしたが、有効なパスポートを持っておらず、無国籍者だったのでオランダに密入国して祖父母に会った。
祖父母は屋根裏部屋に潜伏していて無事だった。
シルベルベルフ一家は戦前にもアメリカに渡ろうとして、おじがの1人が保証人になってくれたが、その時は出国許可が降りなかった。
1947年12月、ヘローはニューヨーク行きの船に乗り込んだ。
両親も数ヵ月後にアメリカへ渡った。
1950年、ヘローは朝鮮戦争へ動員され、またしても人生の貴重な2年間を奪われてしまった。
帰国後、ブリュッセル時代に知り合って以来何度も別離の危機を乗り越えた仲のマリーゼと結婚。
一男一女が生まれた。
エド(アメリカに渡って以来の自称)は実験器具販売会社の社員となった。
現在、妻とともにニュージャージー州在住。
イート・スヴィレンス(モンテッソーリ・スクールのアンネの学友)
1947年に女学校を卒業。
大学で心理学を専攻したが、1954年に結婚。
1970年代に大学に復学し、教員免許を取得。
現在オランダのアムステルフェーンに在住。
マックス・ストッペルマン(アウシュビッツ収容所でオットー・フランクらと一緒だった収容者)
1945年1月18日、ドイツ軍の撤収に伴ってアウシュビッツから移動させられた。
これは死の行軍と呼ばれた過酷な逃避行だった。
彼は日記にこう書いていた。
まず、グライヴィッツ(現ポーランドのグリヴィーツェ)第一収容所に到着。
バラックからバラックへと追い立てられた。
死者多数。
監視人達が射撃コンクールと称して収容者を撃ったため。
その後、グライヴィッツ第二収容所を目指してまたも歩け、歩け。
そこでも、射撃コンクールで死者多数。
そこから収容者達は貨車に乗せられマウトハウゼンまで移送された。
停車時、死者が外へと放り出され・・・・・・積み上げられ、焼かれた。
やっとの事でマウトハウゼンに到着。
貨車1台に付き4、5個のパンが投げ込まれた。
生存者達が奪い合ったが、水は依然として無い。
雪を食べただけ。
マウトハウゼンに空きが無かったため、死の行軍は更にベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所へ、そこから再び南進してバイエルンのフロッセンビュルク強制収容所へと続いた。
同地でマックスは食糧配給に1日2回並んだところを見とがめられ、罰としてプラットリング強制収容所(ニーダーバイエルン)の野外労働班に入れられた。
この地で数少ない生き残りの1人として、アメリカ軍による解放を迎えた。
プラットリングの病院から、彼はヤンとミープに手紙を出した(1945年5月19日付)。
親愛なるヤンとミープ、そして母さんもこの手紙を読んでくれるといいのだけれど。今病院にいます。とても手厚い看護を受けています……
ヤンは1943年秋、マックスとその妻ステラのために隠れ家を世話してやった事があったので、マックスはヤンほど手回しのいい人はありませんと感謝の言葉を書いていた。
1945年7月にアムステルダムに戻るとマックスは、繊維商の仕事を再開した。
1947年に再婚相手のロッテと知り合ったが、結婚したのは赤十字から前妻のステラが1944年12月にベルゲン=ベルゼン強制収容所で殺されたものと思われる――を知った1951年の事である。
マックスは現在、妻と共にオランダのブスムに住んでいる。
ペーテル・スヒフ(アンネの憧れの人)
彼は1943年9月23日、母親および養父と共にヴェステルボルク通過収容所に入った、という記録が残っている。
勤労奉仕の呼び出しに従わなかったとして、第67懲罰バラックに入れられた。
母親と養父が1945年1月18日、テレジエンシュッタトに移送されたのに反し、肉親が敵国に在住しているとみなされたペーテル(実父が1930年代にアメリカに亡命)はその1年前の1944年2月1日にベルゲン=ベルゼン強制収容所に移された。
そこから更にアウシュビッツに送られたのであろう。
いつ殺されたのかは不明だが、書類上は1945年5月31日が彼の死亡日とされている。
イェテケ・フレーダ(マルゴーの友人)
マルゴーに勤労奉仕の呼び出し状が来てから数週間後に勤労奉仕の呼び出し状が届いた。
呼び出しに応ずるなど論外だった。
イェテケは潜伏した。
イェテケの母はドイツがオランダに占領する前にスイスに亡命した。
父の経済学者へルマン・フレーダはユダヤ人評議会に毅然とした態度を取った。
ヘルマンはアウシュビッツに移送されて殺された。
抵抗運動に参加していた兄のレオが射殺された事は潜伏中に新聞で知った。
戦後、司書になったが、看護婦になり、ソーシャルワーカーとホームケアの仕事に就いた。
現在もソーシャルワークとホームケアの指導をしている。
現在住んでいるアムステルダムに兄のレオにちなんだ通りがある。
ナネッテ・ブリッツ(愛称ナニー)
両親と兄弟はベルゲン=ベルゼンで死亡。
ナニーは重い結核にかかっていた。
1945年6月ないしは7月にサントポールト(オランダ)のサナトリウムで療養生活を送る。
ナニーは数年間療養生活を送っていた。
リースはオットーにナニーにマルゴーとアンネの最後を尋ねるように勧め、オットーはナニーに手紙を出した。
ナニーはそれに答えて1945年10月末に療養所からオットーに手紙を出した。
ヴェルナー・プフェファー(プフェファーの息子)
身内は全員亡くなった。
ロンドンのおじは急死し、母親はアウシュビッツで殺された。
ヴェルナーはミープと1995年の映画アンネ・フランク・リメンバードで出会った。
1995年に癌で死亡。
アリス・フランク=シュテルン(アンネの父方の祖母)
1953年3月20日、アリスはバーゼルで88才でこの世を去った。
ゲルトルート・ナウマン(アンネの幼少時の子守役、フランク家の友人)
戦後、オットーはすぐに連絡を取ろうとした友人の1人である。
ゲルトルートは結婚するまでIGファルベン社(ドイツ最大の化学コンツェルン)で働いていた。
戦争中トルコに行っていたカール・トレンツと1949年1月24日に結婚。
3人の子供が生まれた。
ゲルトルートは毎年(通常は秋)にオットーが死亡するまでオットーの所に訪れていた。
現在夫共にフランクフルトに在住。
その住まいは、マルバッハ通りから歩いてわずか5分の所にある。
ランメルト・ハルトホ(隠れ家の倉庫係)
1948年に警察が何かを探している様子ではなく、何か事情を知っていたとようだと証言した。
警察はなぜ何か事情を知っているのかを追求すべきだった。
クレイマンは1944年8月4日にランメルト・ハルトホが上着を着てプリンセン運河通り263番地の事務所から出て行くところを目撃していた。
しかし、1963年の再捜査は不可能であった。
1959年に死亡したからである。
レナ・ハルトホ=ファン・ブランデン(ランメルト・ハルトホの妻)
彼女は1948年3月18日、後ろの家の密告に関する捜査の一環として、アムステルダム市警察から証言を求められた。
息子のクラースは現在も行方不明。
当時50才の彼女はゲシュタポが踏み込んでくるまで何も知らなかったと言いたかった。
アンナ・へノット・ファン・ヴェイクは、アンネ達が連行される数週間前――おそらく1944年7月に、レナが隠れ家のユダヤ人の事を話しているのと聞いたと証言していた。(1948年3月20日の取調べでもそう証言していた。ちなみにアンナの夫ペトルス・ヨセフス・ヘノットは、クレイマンとその兄の会社で働いていた。)
彼女はその時にプリンセン運河通り263番地で働いていた事を黙っていた。
おそらく意図的に黙っていたのであろう。
1963年6月10日、彼女はフェーネンダール(オランダ)で死亡した。
警察による再捜査開始の、わずか数ヶ月前の事だった。
ヒース夫妻(ヤンとミープ)
アンネ達が連行された数日後、アブラハム・ピュルス(引越し業者。ユダヤ人の使えそうな家財をナチス党員優先で空襲で焼け出されたドイツ人、ナチス党員優先に提供していた。)がやって来た。
ミープはアブラハム・ピュルスが来る前に、ファン・マーレンに残りのアンネの日記を回収してもらった。
ミープはもし、アンネの日記を見ていたら、破棄せざる得なかったと言っていた。
ナチスの目から見れば有罪の証拠になる事ばかりが書かれていたからだ。
ミープはジルバーバウアーの所に行き、いくらであの方達を釈放してくださるかしらと言ってみたが、取り合ってもらえなかった。
1948年にファン・マーレンはミープがゲシュタポに色目を使っていたと言ったが、ヤンはミープに君にそんな暇があったのかと言った。
ミープにも正しき人の記念メダルが贈られた。
戦争が終わってもオランダ国内では混乱が続いていた。
1945年8月でもガスが昼間の1時間しか使えなく、路面電車は午前中は7時〜9時、午後は4時〜6時までしか走っていなかった。
クレイマンが釈放されるまで、オペクタ商会とヒース紹介の臨時管理人を務めていた。
ヒース夫妻の家にオットーは7年間暮らした。
オットーの旧友アルベルト・カウフェルンも一緒だった。
カウフェルンは自殺で妻のイーサ(オットーの元秘書)を自殺で失くしていた。(この人がアンネ達を(ry)
1949年にカウフェルンは出て行ったが、新たな同居人が出来た。
1950年7月に息子のパウルが生まれた。
オットーが1952年にスイスのビルフェルデンに移住して以来、毎年訪れていたが、ミープはビルフェルデンの広い家に泊めてもらえずにホテルで泊らなければならなかったのか、ミープは今でも理解出来ないという。
旅行代はヒース家の家計をいたく圧迫したが、それでも訪れるだけの価値はあった。
死の数年前、オットーは息子のパウルに1万ギルダーを遺贈すると約束した。
オットーはミープに日記を救ったとして1万ギルダーを遺贈した。
オットーは庶民にとってこれが大金だと思ったのだろう。
ヤンは1993年1月26日、アムステルダムで死亡。
1909年生まれのミープは、現在アムステルダムの自宅で誰の援助も受けず、かくしゃくとして暮らしている。
リュシア・ファン・デイク(モンテッソーリ・スクールのアンネの友人)
祖母の影響で1942年末にオランダ版ヒトラー・ユーゲントを脱退。
彼女の父は1942年8月に脱退していた。(1944年死亡)
ナチ・シンパのオランダ人が次々とオーストリアへ亡命していたさなかの1944年、ナチスの党員の知人からあなたもそうしなさいという勧め(2年前にオランダ版ヒトラー・ユーゲントを脱退したんだから関係ないのに。)を断り、オランダに踏みとどまった。
何も悪い事をしてないわ、と彼女は胸を張った。
食糧配給で便宜を図ってもらった事もないし、――党員ならそんな事やろうと思えば簡単だったのよ――そのほかの党員の特権を利用した事も無いわ。
だから、何も怖がる必要な無いのよ。
事実、大半のオランダ人党員の運命とは対照的に、彼女は戦後何の処罰も受けなかった。
母親の方は、確固たる信念の証といおうか、頑迷の表れといおうか最後までナチスに忠誠を尽くした。(母親も処罰を受けたのでしょうか?)
1940年末に夜学に通って高校卒業資格を手にし、速記タイピストになり、印刷会社の秘書となった。
1955年に結婚。
息子が2人生まれた。
夫はすでに他界。
現在アムステルダム在住。
ジャクリーヌ・ファン・マールセン(アンネの友人)
戦後間もなく、オットー・フランクから日記を渡されても読む気にはなれなかった。
1948年大学入学資格を取得。
1952年、オペアガール(英語を学ぶためにイギリスの家庭に住み込んで家事を手伝い外国人女子)としてロンドンに1年間留学した。
帰国してから1年後、子供時代の顔見知りで4年越しの恋人だったルート・サンデルスと結婚。
ジャクリーヌは美術書の装丁を担当し、数々の賞を受けた。
1990年、アンネ・フランクとの友情をつづった本を発表した。
このアンネとヨーピー(邦訳は同タイトルで文藝春秋社刊)は何ヶ国後にも翻訳された。
現在、アムステルダムで夫と共に在住。
子供が3人いる。
ヴィレム・ヘラルト・ファン・マーレン(隠れ家の倉庫係の主任)
長年にわたり、密告の首謀者とされてきた。
特にクレイマンとクーフレルはそう確信していた。
オットー達が連行された後も彼は会社の金にたびたび手を付けていた。
戦後間もなく、クレイマンはアムステルダム警察の政治犯罪捜査本部に手紙を出し、ファン・マーレンに対する疑いを述べていたが、告発までは踏み切らなかった。
ファン・マーレンはその後、倉庫係主任の地位に留まった。
ミープはファン・マーレンが有能な人材だと述べ、ファン・マーレンの事が嫌いだったが、密告に関しては無実だと考えていた。
クレイマンとオットー・フランク(解放されるまでファン・マーレンと面識なし)がファン・マーレンに退職勧告をしたのは1945年末の事だった。
1963年、元SS上級分隊長カール・ジルバーバウアーの居所を突き詰めた事により、捜査が再開されるが、有力な証言が得られず、1964年11月4日に捜査は再び中止になる。
1971年アムステルダムで死んだ。
76才だった。
ベップ・フォスキュイル(ベップは愛称。現在のフルネームはエリザベート・ファン・ヴェイク)
戦後すぐにオペクタ商会を退職し、1946年5月15日に結婚。
間もなく娘のアンナが生まれたが、ベップの父のヨハンネス・ヘンドリク・フォスキュイル(オペクタ商会の元倉庫係主任)は、孫の顔を見る事は出来なかった。
1945年11月末に癌で死亡したためである。
12月1日に執り行われた葬儀には、オットー・フランクも参列した。
1948年、密告に関する捜査が行われた際、ベップが事情徴収を受けなかった事を、ミープは警察のひどい間違い。ベップなら、掃除婦レナ・ハルトホの陳述の矛盾を解明出来たはずだと言っていた。
1963年に再捜査が行われた時には、ベップも証言を求められたが、ファン・マーレンの件についてだけだった。
ベップもヒース夫妻同様、オットーから1万ギルダーの遺贈を受けた。(クレイマンはオットーが亡くなる随分前に亡くなり、クーフレルはオットーが亡くなった直後に亡くなったので1万ギルダーは遺族に遺贈されたのでしょうか?)
1983年5月13日にアムステルダムで死去。
オットー・ハインリヒ・フランク(アンネの父)
アウシュビッツ解放後、カトヴィツェおよびチェルノフツイ(ウクライナ西部の都市)を経由してオデッサに移送された。
そこからダーダネル海峡を渡り、海路フランスへと向かった。(なぜ陸路じゃなくて海路なんでしょうか?まだ戦争が終わっていなかったからでしょうか?)
5月末にマルセイユに到着、6月3日にアムステルダムに帰り着いた。
3月末にオデッサでヴェステルボルク以来の友人、ロザ・デ・ヴィンテルと再会し、妻の死を聞く。
マルゴーとアンネの死を聞いた同日、ミープからアンネの日記、数冊のノートとバラの用紙327枚を渡された。
オットーは数ヶ月間は読まなかったが、それをドイツ語に翻訳してバーゼルの親戚に送った。
オットーは1953年11月10日、エルフリーデ(愛称フリッツィ)・ガイリンガー=マルコヴィッツと再婚した。
彼女もアウシュビッツで夫と息子を亡くしていた。
フランク夫妻とガイリンガー夫妻は面識が無かったが、子供同士も顔見知りという程度で、特に付き合いは無かった。
彼女の娘エーファが2人の仲を取り持ったのである。
オデッサ移送中にオットーに気が付き、母親に引き合わせたのである。
オットーはオランダの改革派ユダヤ教信徒共同体のリーダーとなったが、敬虔なユダヤ教一筋にはならなかった。
1956年1月に隠れ家の取り壊しが決まったが、隠れ家の保存と公開目的で1957年5月3日にアンネ・フランク財団設立された。
オットーは生涯慎ましい生活を送っていた。
列車には2等客車に乗り、タクシーは極力使わないようにしていた。
1980年8月19日にオットーが亡くなって以降はアンネの日記の著作権、および書籍、戯曲、映画、ラジオ、テレビから上がるライセンスの収入はアンネ・フランク財団のものとなった。
ハンネリ・ホースラル(リース。アンネの友人)
1944年4月初め、連合軍の足音の迫っていたベルゲン=ベルゼン強制収容所から、収容者達が次々と移送されて行った。
1年2ヶ月間収容されていたリースと、当時4才半だった妹のハビーもその中に入っていた。
家畜用貨車の押し込まれたまま、ドイツ各地を転々とした。
そして、ついにドイツ降伏。
ホースラル家で2人だけ生き残った姉妹は(祖母は3月末に亡くなった。)、オーデル湖畔のフランクフルト近くで数週間立往生した後、6月15日にアメリカ軍によってライプツィヒに送り届けられた。
リースは重い結核にかかっていたため、アムステルダム帰還の許可が下りず、マーストリヒトの病院で数ヶ月間足止めを喰らった。
オットー・フランクは1945年8月に病院にリースを見舞って以来、父親代わりになって姉妹の面倒を見た。
アムステルダムから戻ってからも数週間病院で治療を受け、その後1945年12月5日、オットーによって妹ハビー共々伯父の住むチューリッヒまで飛行機で送り届けられた。
リースは最初、結核療養所で入院し、その後、バーゼルに住むオランダ人夫婦(7人の子持ち)に引き取られた。
戦争のため学校に通えなかった彼女は同地の高校を卒業した。
信心深い彼女は、同級生のイート・スヴィレンス宛ての手紙(1946年8月4日付)に、パレスチナに行って、乳児保育を勉強したいと思っていますと書いていた。
1947年、彼女は妹ハビー共にエルサレムに渡り、看護婦になっていた。
出版業者と結婚し、子供が3人生まれた。
現在もエルサレム在住。
孫が10人いる。
イレーネ・ホーレンダー(エーディトの従妹)
1937年リマに移住した半年後に医師と再婚。
1960年代にアメリカに移住。
1974年3月9日に死亡。
その3年前にはウルズラに先立たれいた。
ドロテーは健在。
息子が2人いる。
レーデルマン一家(フランク一家と家族ぐるみで付き合いがあった)
バルバラを除いた3人はヴェステルボルク通過収容所に4ヶ月間収容された。
パレスチナ・リストに載っていたため、強制収容所送りをしばらく猶予されていたが、1943年11月15日に彼らは翌日移送される事を知った。
16日の朝、イルゼはバルバラ宛手紙を走り書きし、仲間の収容者に頼んで差し出してもらった。
久し振りの長旅になります。……バルバラ……また会いましょうね
これが彼らの最後の旅になった。
アウシュビッツに到着した直後の11月19日に3人全員がガス室で殺された。(パレスチナ・リストに載っていたのにベルゲン=ベルゼンに移送されなかったのですか。きっと、アウシュビッツに移送する人数が足りなかったからだと思います。)
バルバラは当時の恋人マンフレートの助けを借りて1943年に偽造旅券を手に入れ、アムステルダムで潜伏に成功。
バルバラ・ヴァールツという偽名を使い、抵抗活動を続けた。(ブラックブックのラヘルみたいです。)
金髪と青い目が彼女を守ってくれた。
戦後、20才の彼女はダンサー兼女優を目指し、オランダに永住しようと望んだ。
彼女の父親はすでに、1930年代半ばからオランダ国籍の取得を申請していたが、ようやく許可が下りようとしていた時にドイツが侵攻したのであった。
バルバラは改めて帰化を申請したが、オランダ国籍を得られず、その代わりに、父親が申請時に支払った200ギルダーを返還された。
バルバラは1947年、親戚のいるニューヨークに移住。
アメリカでも女優兼ダンサーの仕事を続け、ついにはリングリング・ブラザー・サーカス(当時世界最大級のサーカス団)と契約した。
1950年に若手の生化学者マーティン・ロッドベルと結婚。
ロッドベルは1994年にノーベル医学賞を受賞した。
現在ノースカロライナ州在住。
子供が4人いる。
キティー(アンネの学友)
テレジエンシュタット強制収容所の数少ない生き残りとなった。
同収容所のユダヤ人14万人のうち、11万8千人が命を落とした。
解放時にキティーは16才になっていた。
キティーはすぐさま普通の生活に戻らなければならなかった。
まずは大学入学資格を取得し、大学の歯学科に進み、父親を継いで歯科医になった。
キティは今は亡き友人のおこぼれにあやかる気はなかった。
オットーはアンネの日記のキティーにちなんで付けられたと考え、キティーに注目が集まると思った配慮からキティーのフルネームは公表しなかった。
結婚して子供が2人いる。
オランダ在住。
アンネの親戚はスイスや南米、アメリカという安全な場所に亡命出来るうちに亡命したのにフランク家だけナチスの犠牲になってしまったのですが、なぜほかの親戚が亡命しようとしている時に一緒に亡命しなかったのかと思いました。(亡命したいという手紙は出していましたが。)
1番いいのはアリスおばあちゃんがスイスに亡命した時に一緒に亡命すればと思います。
オットーのロンドンの親戚がアンネとマルゴーを預けたらどうかと言って来た時にアンネとマルゴーをロンドンに預ければ良かったと思います。
プフェファーの息子はロンドン在住の兄弟に預けられ、非常に不幸でしたが、ナチスに殺される事はありませんでしたから。
隠れ家に潜伏するのであればほかのユダヤ人達と同じようにアンネとマルゴーも違う所に隠れれば良かったと思います。
ヘローの家族やイェテケの家族もバラバラで潜伏していましたし。
隠れ家に潜伏していたのは8人なので見付かる危険性がとても高かったのは言うまでもない(すでに見付かっていますし。)のですが、アンネとマルゴーとペーター(猫を置いて行っても危険性は少しは減ったと思います。)がほかの所に潜伏して5人になっても見付かる危険性はまだ高いのでオットーとエーディトとプフェファーがプリンセン運河通り263番地に潜伏してヘルマンとアウグステが違う所に潜伏すれば良かったと思います。
8人が同じ場所に潜伏していても後ろの家に出なければ見付からなかったかもしれません。
終わった事をあれこれ言うのはどうかと思いますが、ナチスが占領した地域にいる限りは殺される危険性はなくなりませんが、ほかに助かるチャンスはいくらでもあったように思います。
アンネの友人達は戦争が終わってから普通の生活を取り戻そうと必死で働いたり、学校での遅れを取り戻そうと必死で勉強をして、生き残った人達も大変だった事が分かりました。(ジャックやハンネローレは学校に行けたので恵まれていますが。)
大人も大変でしたが。(戦争が終わって3ヶ月経っても通常の生活には戻りませんでしたから。)
マルゴーとアンネ、ペーターは隠れ家で勉強していたので生きていたら学校に行っていなくても学校での遅れはすぐにていうか、遅れるという事はなかったでしょう。
オットーも死んでしまい、誰も隠れ家に戻って来なかったらアンネの日記の存在が世界中に知られる事はあったでしょうか?
ミープがアンネの日記を公開していたかもしれません。
ミープはアンネの日記をすぐに見ていたら破棄せざる得なかったと言っていましたが、アンネが戻って来る事を考えて保管していたのでアンネの日記は残りました。(何冊かの日記は見付かっていませんが。)
フランク家以外の誰かが戻って来てもミープはその人に日記を渡さずに、自分の手で公開していたかもしれません。
アンネが生きていたらもちろん日記を公開すると思いますが、(そのために日記を推敲していましたし。)アンネの日記が今ほど有名になっていたか分かりませんし、アンネの日記が今の内容で公表されていたか分かりません。
アンネの日記は様々な偶然から今の形で公表されるようになったと思います。